なぜ"いじめられている人"を見て笑うのか
対話をしているうちに「なぜいじめられている人を見て笑うのか」という問いが出てきて、結局「みんな面白いから笑っているわけではない」ということがわかったのです。ほかの人が笑ってるのに合わせていただけで、本当はよくないってみんな思っていたんだと。その日以来、教室からはいじめを笑う声がなくなっていき、「そういうことするのやめなよ」という人が出てきました。そのうち自然といじめはなくなっていったそうです。
「なぜいじめられている人を見て笑うのか」は生徒しか思いつかない問いでしょう。だからこそ、このような効果が出たと私は考えています。教師の側から「なぜいじめはダメなのか」という問いで話し合いをさせていたら、これほどうまくはいかなかったでしょう。
学校での哲学対話では、「なぜ部活の先輩に敬語をつかう必要があるのか?」という疑問があがります。自分よりスポーツが下手で、人間的に尊敬できない先輩がいたとき、学年が違うだけでなぜ敬わないといけないのか。社会人なら「なぜ無能な上司のいうことに従う必要があるのか」と置き換えることができるでしょう。
愚痴のレベルなら、「あんな上司のいうことを聞いてられるか!」「あんなやつ嫌いだ!」の一言で終わってしまうかもしれません。一方、哲学対話では「わからないこと」を増やすことが重要です。わからないことが増えることは、多様な視点から考えを深めることにつながっていきます。
「わからないことが増えてよかったですね」
「有能な上司だったらいうことを聞くのはなぜか?」「人格的には素晴らしいけど仕事のできない上司の場合は?」「自分はそもそもどういう人なら敬意を示したくなるのか?」
――そうやって問いを増やしていくと、個人的な問いが、だんだんと普遍的なものへと変わっていきます。そのうち、自分が大切に思っていることや、本当に不満に思っていることに気がつく。これから向き合うべき問いが見つかることもありますし、当初の上司の問題がどうでもよくなることだってあるかもしれません。
悩んでストレスを感じているときは、たいてい、同じ問いが頭の中をぐるぐる回っているだけで、そこから抜け出せなくなっているのだと思います。ストレスを感じたら、いま自分は同じことばかり考えていないか振り返ってみましょう。そして、問いを増やせないか? と発想を転換してみてください。わからないことは増えるかもしれませんが、意外とすっきりするはずです。
哲学対話では、立場の違う他人と話すことによって、問いが自然と増えていく効果があります。私は対話が終わったあとに、「皆さん、わからないことが増えてよかったですね」と声をかけています。