学生時代は飲食店でアルバイトをしながら山笠に打ち込んできた。赤手拭になったのは18歳。岡崎の所属する町内40人のうち、赤手拭11人の1人に選ばれた。その中でもダントツに若かった。卒業してからも山笠には出続けたいが、山笠への参加を認める会社があるとは思えなかった。しかも赤手拭は、現場で身体と頭を使う若手リーダーである。片手間ではつとまりそうにない……。
大学4年のある日、町内の幹部のあるお祝いの会で、岡崎はスピーチを許された。
「僕は山笠に出続けたいと思ってます。山笠に出ることを許してくれる心優しい社長さんがいたら、ぜひ挙手をお願いします」
思い切ってこう切り出してみたところ、何人かの手が挙がった。その一人が、ふくやの川原正孝(当時の社長・現会長)だった。川原はその場で岡崎に面接を受けにくるよう伝えた。
そして何段階かの面接試験を経て、岡崎は内定を得る。
「山笠ってほんと、理不尽なんですよ」
と岡崎は言う。たとえば、町内にいただいた祝儀や酒の内訳、神事の最後の会食「直会(なおらい)」でどの銘柄の酒を何本出したかなど、細かい記録を徹底して積み重ねていかなくてはならない。少しでも合わないとやり直し。同じことをやるにも、 さっきある先輩に言われたことが、別の先輩から「それは違うやろ」とひっくり返されることはざらだ。
それでも「山笠は大事」と岡崎は言う。
“ツッパリ”も泣いたひとりの卒業式
岡崎は、2歳の時から22歳の今まで一度も欠かさず山笠に出てきた。通学した地元の福岡市立博多小学校と博多中学校では、生徒と教師の山笠参加が「公休」扱いとなる。
博多中学では野球部に入ったが、部活以外の先輩たちとの遊びに引き寄せられ、酒、タバコはもちろん、盗んだバイクで登校するなど、警察沙汰もあった。その度に教師から叱られ続けたが、生活態度は直らなかったという。
山笠の組織では、中学生になると大人として扱われる。「流」を構成する各町内の集まりでは、言葉遣いから立ち居振る舞いまで大人たちは容赦ない。若手は皿洗いなど下働きもしなくてはならない。だが、岡崎は山笠の先輩たちに「まるで金魚のフンのように」ついて回った。
学校という同調圧力にはストレートに反発する岡崎なのに、山笠の厳しさはイヤではなかったという。どうしてなのか。
「町内の先輩たちは厳しいけど、大人になったらこんな楽しいことがあるっちゃけん、っていろんな遊びも教えてくれる、お兄ちゃんみたいな存在です。先輩たちの櫛田入りする姿がめちゃカッコよくて、あんなふうになりたいって思ったんです」