6人の子どもが〈男男男女女女〉の順で生まれる確率と、〈女男男女男女〉となる確率は、どちらが高いか――。多くの人は後者のほうが起こりやすいと答える。なぜ人間は確率をねじ曲げて、「ランダムネス」を自分勝手に解釈するのか。「直感」や「経験則」に基づく人の行動を理論化しノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンと、その若き日の研究パートナーであるエイモス・トヴェルスキーの足跡を、『マネー・ボール』の著者マイケル・ルイスが追う。

※以下は、マイケル・ルイス著、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋)の第6章「脳は記憶にだまされる」からの抜粋です。

「あいつが酔っている確率は75%だ」

彼らの最初の論文は、統計的に正しい答えがある問題を解くときでも、人は統計学者のようには考えないことを示していた(彼らはそのときもまだ、その論文は学術の世界における冗談のようなものだとなかば思っていた)。統計学者でさえ、統計学者らしい思考はしないのだ。“少数の法則の思い込み”からは当然、次のような疑問が生まれる。統計学的な推論をすれば解ける問題に、それを使わないのであれば、いったい人はどんな推論を使っているのか。人生で何度も遭遇する危険な状況で、ブラックジャックのカードカウンターのように考えないのなら、いったいどうやって考えているのか。ダニエルとエイモスの次の論文は、そのような問題に対して部分的に答えを出していた。そのタイトルは……エイモスはタイトルについて思い入れがあった。彼はタイトルを決めるまで、論文を書き始めようとしなかった。タイトルを決めることで、その論文の内容と真剣に向き合えるようになると信じていた。

マイケル・ルイス著、渡会圭子訳『かくて行動経済学は生まれり』(文藝春秋)

とはいうものの、ダニエルが二人の論文につけたタイトルは謎めいていた。彼らも少なくとも初めのうちは、学問世界のルールの中でプレーしなければならなかった。そのゲームでは、簡単に理解されてしまうのはあまり立派なことではなかった。人がどのように判断を下すかを説明した最初の論文は『主観的確率──判断の代表性』というタイトルだった。主観的確率。これについては、意味はなんとなくわかる。特定の状況が起こる確率についての、多少なりとも主観をまじえた予測と考えられる。たとえば、真夜中に窓から外を見たら、十代の息子が千鳥足で玄関に向かって歩いてきた。あなたはこうつぶやく。「あいつが酔っている確率は75%だ」──これが主観的確率だ。

 

判断を下すとき頭の中にあるモデル

しかし“判断の代表性”は? これはいったい何なのだ? その論文は「主観的確率はわれわれの生活で重要な役割を果たしている」と始まる。「われわれの決断、導き出した結論、他人への説明はたいてい不確実な出来事が起こる可能性の判断に基づいている。それはたとえば新しい仕事での成功、選挙結果、市場の状況などがあげられる」。それらをはじめとした多くの不確実な状況で、脳は自然には正しい可能性を計算できない。では、実際にそれをどうやっているのだろうか?

彼らはその答えを見つけていた。確率の法則の代わりに、経験則を使っているのだ。その経験上の法則を、ダニエルとエイモスは“ヒューリスティック”と呼んだ。そして最初に調べたいと思ったヒューリスティックが“代表性”だったのだ。