人は判断を下すとき、頭の中にある何らかのモデル(イメージ)と比較していると、彼らは述べている。あの雲は(自分の頭の中にある)嵐の雲とどのくらい似ているだろうか。この潰瘍は(自分の頭の中にある)悪性がんとどのくらい似ているだろうか。ジェレミー・リンは(自分の頭の中にある)将来のNBAプレーヤー像とどのくらい一致しているだろうか。あの好戦的なドイツの政治主導者は(自分の思い描く)大量虐殺をやりかねない男の像と似ているだろうか。

この世界は劇場だという言葉があるが、それだけではない。この世はカジノであり、わたしたちの人生は確率のゲームだ。そして人はあらゆる状況で確率を計算し、似ているかどうか、つまり(奇妙な新語だが)代表性の判断を行なっている。人は母集団のイメージを持っている。たとえば“嵐の雲”、“胃潰瘍”、“大量虐殺をしでかしそうな独裁者”、“NBAプレーヤー”。人は特定の事例をこうした母集団と比べているのだ。

そこには何か系統的な間違え方がある

エイモスとダニエルは、そもそも頭の中のモデルを人がどのように形成しているのか、そして類似性をどのように判断しているかという問題については言及していなかった。彼らは頭の中のモデルがほぼ明白なケースだけを扱った。特定の事例が頭の中の像と似ていれば似ているほど、人はそれがより大きな母集団に属していると考えがちだ。彼らの論文にはこう書かれている。「われわれの命題は、多くの状況でAという事象がBという事象より起きる確率が高いと判断するのは、AがBより代表的だと思われるときである、というものだ」。たとえばあるバスケットボールの選手が、あなたの頭の中にあるNBAプレーヤー像に近いほど、その人はNBAプレーヤーになると考えやすくなる。

彼らは、人が何かの判断をするとき、ただでたらめに間違えているわけではないと感じていた。そこには何か系統的な間違え方がある、と。彼らがイスラエルとアメリカの学生にした奇妙な質問は、人間の間違いのパターンを引き出すようつくられていた。これは扱い方の難しい問題だ。彼らが代表性と呼んだ経験則は、常に間違っているわけではない。不確定なことを考えるときのアプローチが誤りやすいのは、それが便利すぎるからであることが多い。多くの場合、優秀なNBAプレーヤーになる選手は、頭の中の“優秀なNBAプレーヤー”像と、かなりの確率で一致する。しかし、ときどきその像と一致しない選手が現れる。そこで多くの人がする間違いから、経験則とはどういうものか、その性質をかいま見ることができるのだ。

より“ランダム”に思える順番とは

たとえば6人の子どもがいる家庭で、子どもの性別が上から〈男女男男男男〉となる確率と、〈女男女男男女〉となる確率は同じである。しかしイスラエルの高校生たちは──世界中のどんな集団でも同じ結果になるだろうが──後者のほうが起こりやすいと自然に考えるようだった。いったいなぜ、そう考えるのだろうか? 「男5人に女1人という割合が、集団全体の比率を反映していないからだ」と、彼らは説明している。言い換えると代表性が低いということだ。さらに同じ生徒たちに、上から〈男男男女女女〉となる確率と〈女男男女男女〉となる確率のどちらが高いか尋ねると、圧倒的に後者を選ぶ人が多かった。しかしこの2つもまた、確率は同じだ。ではなぜ、ほぼ世界中の誰もが、一方がもう一方より起こる確率が高いと思うのだろう。それは人が、出生の順番はランダムなプロセスだと思っていて、後者のほうが前者の順序より“ランダム”に思えるからだと、ダニエルとエイモスは指摘した。