被害者は他にもいた。藤田と共同研究を行った元気象庁の土屋清だ。
「藤田先生は、観測に必要だと思うと徹底してやるんです。データが気に入らないとテ~ッと急旋回してもらって、またやるんです。もう、何回でも気が済むまでやるんですよ。私も何度も観測飛行はやってますが、急旋回するとダメでね。天と地がひっくり返ったりすると、急に気持ち悪くなっちゃって……。それで、『途中で降ろしてくれ』と言って下りたんです。そしたら、今度は先生が1人で飛ぶんだ。それで全部1人で記録をつけて。それぐらいすごいんです。科学者魂っていうんですかねぇ」
「もっと揺れたら面白いんだけど」
藤田は、パイロットに具体的に指示しながら、命知らずの飛行を繰り返した。
「パイロットが『もう参った~』とか、『先生には驚きました~』とか言ってましたよ」
元日本航空機長の上田恒夫は、藤田の危険すぎる探究心を垣間見ていた。
「飛行機をチャーターして雷雲の中を突っ切らせて、実際、どんな感じなのか体験してみたいと、そういう願望も持っておられました」
──……ものすごく危ないですよね?
「危ないです、非常に危ないです。一度、藤田先生を私の飛行機にお乗せしたことがあるんですが、その時に乱気流に遭ってちょっと飛行機が揺れましたら、『もっと揺れないかなぁ~』と言っておられたのを覚えていますけど……」
──え? どういうことですか?
「『もっと揺れたら面白いんだけど』と。乱気流に遭うと、普通のお客さんは怖がりますけど、藤田先生は『もっと揺れないかなぁ』って(笑)」
──それって、どうなんでしょう? かなり普通と違うと言いますか……。
「冒険心が旺盛ということなんですかね。とにかく『自分で体験してみたい』と」
「スーパーセル」(回転雷雲)を上空から見る
藤田は実際に、向こう見ずな願望を実現しようとしてきた。
1961年春、40歳の藤田はある計画を実行に移した。
それは、竜巻を発生させる「スーパーセル」(回転雷雲)を上空から見るというものだった。当時、空からスーパーセルが観測された実績はなかった。アメリカ国立気象局の支援を受け、藤田がフライト・ディレクター(飛行指令者)を務め、3台の飛行機に気象観測用のコンピューターやデータ記録装置を乗せてオクラホマ市のホテルに待機した。
竜巻がまさにできる瞬間の雲を捉えるには、観測機は先に離陸していなければならない。
「果たして、そんなことができるのか」
と、不安で眠れない夜があったという。
気象条件を勘案し、観測日を4月21日と定め、運を天に任せた。
観測当日、14時45分、藤田を乗せた指令機が飛び立った。高度5000メートルで旋回し、スーパーセルの卵を探しまわる。すると、北東200キロ先の雲が突然発達し、成長した雷雲の頂上部分が広がって平らになる金床雲が現れた。藤田は直感を信じて、3台の飛行機をその雲に直行させた。
16時5分、目的の雲周辺に到着したが、残念ながらスーパーセルに発達してはいなかった。1時間後に再び、同じ位置へ戻ってみることにした。
17時49分、雲の形は一変していた。藤田は興奮のあまり、大声で叫んだ。
「一生に一度と思ってよく見て下さい! 左側に見えるのが、待ちに待った回転雷雲(スーパーセル)です!」
回転しながら聳えるように立ち上がる巨大な雲が、目の前に現れた。あまりの美しさに息を呑んだ。十数人の乗組員は全員、左側の窓からその壮大な景色に見入っていた。
無言で見とれている皆に、藤田が声を掛けた。
「オーイ、飛行機の左側が重くなったぞ~」
思わず一同、大笑いしたという。