かつての「KY」批判はアンガージュマンだった

本当に読むべきなのは、「大きな空気」である<br><strong>評論家 坪内祐三</strong>●1958年、東京都生まれ。早稲田大学大学院修了。月刊誌「東京人」の編集者を経て、独立。
本当に読むべきなのは、「大きな空気」である
評論家 坪内祐三●1958年、東京都生まれ。早稲田大学大学院修了。月刊誌「東京人」の編集者を経て、独立。

私たち、今50代初めの世代は、高校、大学の頃、シラケ世代と呼ばれた。

その上の世代の人たち(いわゆる全共闘世代)に比べて、社会に対して熱くなく、それがシラケているように見えたのだろうか、実際、そのような年長者たちからのレッテルとは別に、私たちは、シラケ世代だった。

シラケたこと、つまり場の空気が読めない発言や行動を誰かがおこなった時、私たちは、即座に、シーだとか、シラーだとかいった言葉を口にした(そういう私たちの攻撃の対象になるのは友人同士ではなく、むしろ、年長者、教師であるとか修学旅行でのバスガイドさんであるとかのことが多かった)。

つまり私たちは、私たちこそは、元祖、「KY」に敏感な世代だった。

そういう私が、昨今流行りの(というよりも流行りは終わった感じもするが)「KY」に対して異和感を覚える。

私が年を取ったからだろうか。

いや、そうではない。

高校生時代に私たちが口にしたシーという言葉は、教師への抗議、すなわちアンガージュマンの気持ちが込められていた(となるとバスガイドさんゴメンナサイあれは思春期の男子校の男の子たちがあなたにじゃれていたのです)。大げさに言えば、それは、一種の社会行動だった。

それに対して、今の、特に若者たちが口にする「KY」という言葉は、もっと狭く小さい。

私は人の話を立ち聞きするのが好きだから、居酒屋、喫茶店、あるいは電車の中で人の話を良く聞く。