そして実際、「○○って空気読めないやつだよね」、と言った会話を何度も耳にした(「KYなやつだよね」というあまりにもなセリフは実は殆ど聞かなかった)。
そういうフレーズを口にしたがるのは若者に多かった。
彼らが言う、「空気が読めない」の「空気」とは、要するに仲間内の「空気」のことである。もっと大きな「空気」のことは彼らの眼中にはない。
さてこれから先は実話である。
新宿の大きな居酒屋で酒を飲んでいたら、近くの席の若者たち(15人ぐらいのグループ)が、「空気が読めない」問題で盛り上っていた。
その場にいない同僚か同級生(最近の若者は学生と社会人の見分けがつかない)の欠席裁判をしていた。
しばらくして、会計を済ませて、店の外に出ると、その若者たちが舗道にたむろしている。
彼らは私より先に店を出たのだが、トイレか何かでグズグズしている仲間(十人を越える団体だとそういう人間が必ず何人かいる)を待っているのだろう。
それはかまわないけれど、彼らは皆、入口の方を向いて、つまり道路側を背にして、思い思いの会話をしながらたむろしている。
舗道を通過して行く歩行者には大迷惑だ。それから、駅の改札近くで輪をなしているこれまた迷惑な若者たちもよく見かける。
しかし彼らはそれに気づかない。
自分たちの内側(それもかなり小さな内側)の「空気」をひどく気にする彼らも、外側(背中)を流れている「空気」にはまったく無頓着だ。
けれど実は、本当に「読む」必要があるのは、その外側を流れる大きな「空気」のはずだ。
その夜私が見た若者たちは、今の日本の国際情勢でのあり方を象徴しているように思える。国内の「空気」だけを読もうとしている内に、かつての日本は戦争へと突入していった。第二の敗戦と言われている今こそ本当の空気を読むことが必要だ。