凶悪犯に口を割らせる取調官、通常の4倍の裁判をこなす敏腕弁護士、ダルビッシュのメジャー契約を決めた代理人。妥協は許されない極限の状況でも確実に交渉をモノにしたプロのテクニックを探る。

2002年9月17日、小泉純一郎首相が突如、訪朝し、金正日総書記と会談。拉致の事実を認めさせたばかりか謝罪の言葉も引き出し、互いに日朝平壌宣言に署名した。翌10月15日には遂に拉致被害者5人の帰国が実現した。日本の戦後外交史に燦然と輝く成果である。

元外交官、日本総合研究所国際戦略研究所理事長 田中 均氏

当時、これを一からお膳立てした剛腕外交官、それが田中均氏だ。朝鮮半島を含むアジア全体を管轄するアジア大洋州局長に就任したのがその1年前、01年9月のことであった。

局長に就任したとき、田中氏はこう考えた。「日本の安全保障にとって、北朝鮮は大きな脅威だ。それを取り除くための交渉は自分が真っ先にやらなければならない仕事だ」と。

それまで、日本は10年以上かけて北朝鮮と11回にも及ぶ交渉を行っていたが、進展は何もなかった。北朝鮮の主張は「戦後補償をよこせ」、日本側は「拉致問題を認め、解決せよ」。北朝鮮は日本がそう言った途端、「拉致などない」と席を立って帰る始末。

田中氏は、これまでの反省を踏まえ、「大きな絵」を描くことに決めた。

「交渉というのは結果をつくるプロセスです。そのためには双方にとっての共通利益は何かを考えなければなりません。私はそれが着地点としての国交正常化だと考えました。その大きな絵の中に、拉致問題があり、核とミサイルの問題があり、経済協力を勝ち取るという北朝鮮の要望もある、と位置づけたのです」

交渉の手法も変えた。それまでは衆人環視の中で行われていたが、これでは互いの情報がメディアの報道によって筒抜けになってしまう。何よりお互いが腹を割った話がしにくい。そこで田中氏が選んだのが非公式の協議を重ねるというやり方だった。交渉場所となったのは中国。土曜に日本を飛び立ち、翌日曜にかけて交渉、その日の夜に帰国するというパターンを繰り返した。

何より重要なのは誰と交渉するか、である。北朝鮮がXという人間を担当者として出してきた。北朝鮮は日本と違い、独裁国家である。政治的ポジションと権力が相関している欧米の交渉とも大きく違う。トップに君臨する金正日とXがきちんとつながり、金の信頼を得ている人物でなければ、いくら協議を重ねても時間の無駄だ。