ソニービル、開業50周年の決断

It`s a Sony展で展示されているウォークマン(中央)と、その原型となったプレスマン(右)。ウォークマンに付属されていたステレオヘッドホン(左)。

五番街のショールームに勢いを得ていたとはいえ、ソニービルの建設にあたって盛田をはじめ関係者を悩ませたのは、ビル全体のショールームというものをどのように仕上げるのか、その基本的な構想だった。盛田はニューヨークにあるグッゲンハイム美術館にそのヒントを求める。同美術館のフロアがらせん状になっているため、来訪者は最上階から鑑賞を始めるとそのまま1階にまで行き着く。そこで盛田が思いついた構想が「タテのプロムナード」だった、と前述の寄稿文で明かしている。人が歩き回る歩道を水平ではなく、垂直に展開することで、狭小な土地を最大限に活用する、という斬新なアイデアだった。当時設計を依頼されていた芦原義信氏は、この構想を受けて花びら構造のフロアを考案する。

ベータマックス第1号(SL-6300)とビデオカセットテープ。奥にあるのがLP盤上を走り回ってレコードの音を聞かせる「CHOROCCO(チョロッコ)」。ソニーにはこんな製品もあった。

こうして当時としては構想、構造ともに画期的なショールームビルが完成したのだった。

昨年、このソニービルは開業50周年を迎えた。その半世紀の間にこのソニービルを取り巻く環境が大きく変化。第一にソニー自体がかつてのような“電気の専業メーカー”から大きく脱皮して、金融、娯楽のビジネスも手がける世界的な企業に成長した。ソニービルそのものについても、独創的だった花びら構造のフロアが法律に適合しなくなると同時に、バリアフリーという社会の要請にも、物理的に応えられなくなってきた。

こうした状況のもと、ソニーのCEO兼社長・平井一夫はソニービルに思い切った変化を与えることにしたという。ソニー自体も創業70年という節目であったことも平井の背中を押した。

その変化とは何か? 何であるべきか?

そこで、今から4年前2013年の春、平井は号令をかける。これが銀座ソニーパークプロジェクト発足のきっかけになった。このプロジェクトのリーダーには永野大輔が指名される。2012年、平井が副社長になったときからの直属のスタッフで、肩書はCEO室シニアマネジャー、コミュニケーション・クリエイティブ担当。永野は言う。

「ソニービルに変化を、という場合、考えられる選択肢はふたつ、改装かそれとも建て替えか、です。今のソニーは単なるエレクトロニクスの企業ではなくなっており、このエレクトロニクスとともに、娯楽、金融も含めた三本柱を持つ経営体になっています。これらを統合した発信基地の機能をこれからのソニービルは持つ必要があるのではないか。そうだとすれば、今のソニービルでこの要求を満たすのは困難、言い換えれば、器ではなくなっている、と判断しました」

したがって、彼らの結論は改装ではなく建て替えとなった。それでは、どのようにソニービルを生まれ変わらせるのか?

その答えを求めてプロジェクトのスタッフは、原点回帰をする。その試みの過程で、プロジェクトチームはソニービルを企画した当時の盛田の構想にあたったという。そこで彼らが出会ったのは、「盛田の“銀座に恩返しし、銀座の街に開かれた空間にする”という思い」だったと永野は明かしている。