“新しい公園をつくる”という思想

五番街のショールームにアメリカ人を呼び込んだ小型トランジスタテレビ。

当時、盛田はそうした“開かれた空間”として敷地の一角にソニースクウェアという名称の“銀座の庭”をつくったのだ。わずか10坪ほどの小さなスペースだったにもかかわらず、銀座ならではのイベントを次々に生み出して話題をつくりだし、ことあるごとに新聞の社会面を飾ってもいた。この“銀座の庭”の発想を公園にまで発展させる。これこそがソニーパークのアイデアを生み出すヒントになったという。2014年秋のことだ。

ソニービルの立地は、東京という都市空間の中でもとりわけ、人の移動に関して恵まれている、というのが永野の見方だ。具体的には、東西に走る晴海通りと南北の外堀通りという2本の幹線道路の交差点にあり、しかも地下には地下鉄が絡んでいる。同ビルの地下2階の入り口から地下鉄・銀座駅の改札口まで歩いて100歩以下という至近距離。実はこの恵まれた立地を公共的な観点から活かすことを、50年前の設計でチャレンジしていることに永野は気づいたのだという。

トリニトロンカラーテレビ第1号(KV-1310)。

「当時のビル構想・設計のこうした柔軟さを発展させる、そのためにはよりオープンな議論や作業を経て銀座でしか実現できないことをしようということです。その手始めが公園で、この発想は新しいビル建設でも継続することによって、ビルの中にも反映させます」

つまり、“新しい公園をつくる”という思想を新しいビルの構想を練り上げるときの礎にする、というのが銀座ソニーパークプロジェクトの姿勢になっていると言える。つまり、新しいビルの中も外も、その空間を人の流れという観点からは連続したものとして立体的総合的にとらえる、ということだろう。これはまさに、盛田の打ち出した「タテのプロムナード」を発展させた概念となる。こうすることによって、新しいビルは銀座という空間の中で立体的有機的にその一部となり、人々を魅了するものに進化発展し、しかも盛田の思想を発展継承することにつながると思われる。

だからこそ、プロジェクトチームは新しい公園を構想する過程そのものを広く世の中にオープンにするべきであり、そうすることで、新しいビルが人々にとってより魅力のあるものになると考えているようだ。

この観点からすれば、新しいソニービルの建設はすでに始まっている。ビル建築が単に建築する主体・企業とその周辺だけの発想によって行われるのではなく、広く世の中にそのための智恵や知見などを求める、そしてそれらを集積させる過程をオープンに共有することもビル建築の重要な要素であることを、彼らは示そうとしている。

つまりそれは、ビルを建築する主体と基本的アイデアの主はソニーであっても、その創作プロセスそのものを他の人や組織もかかわれるオープンな環境にすることによって、従来にはない“都市の公共的建築物創造の革新”が生まれる可能性だ。単なる“箱もの”的な建築物ではなく、銀座という地域にふさわしい公共的空間とは何か? の答えのひとつがそこからは生まれてくるはずだ。

永野はこんなことも言っている。

「50年前の現在のソニービルは、ソニーの現状の姿からは大きく乖離してしまっています。50年先にソニーがどんな姿になっているかわかりませんが、新しいビルには、その乖離ができるだけ少なくなるようにしたいと思っています」