銀座ソニーパークプロジェクトが始動

ソニーは東京・数寄屋橋交差点角にあるソニービル(中央区銀座5-3-1)を50年ぶりに全面的に建て替える。現在のビルが存在するのは今年の3月末まで。それ以降、立て替えのための取り組み、銀座ソニーパークプロジェクトが本格的に始動するという。現ソニービル解体前のカウントダウンイベントとして昨年11月12日から2月12日までの3カ月間にわたりIt's a Sony展 Part-1を開催。同展終了後22日から3月末まではPart-2が企画されている。

ソニービル銀座。ビルの側面にはソニーパークの告知。(2016年7月1日撮影)

このプロジェクトの第1期は2018年から2020年、東京オリンピックまでの約3年間。この間、現在のビルを解体したあとの700平方メートル(約210坪)あまりの土地を、公園にして、誰もが過ごせる空間として運営する。その公園の名称は「銀座ソニーパーク」になるという。

第2期は2022年以降。ソニーパークを運営しながら新ソニービルの構想を練り固めたのち2020年秋に着工、同22年秋に営業開始の予定。

なぜ建て替えるのか? その背景を探るには、現ソニービル誕生の経緯にまでさかのぼるのが早道だろう。

今のソニービルが開業したのは東京オリンピックが開催された2年後の1966年4月29日。その建設費は32億円。当時のソニーの資本金に匹敵する金額であり、それだけに同社にとっては失敗の許されない一大プロジェクトだった。地上8階、延べ床面積8811平方メートル(約2600坪)のビルの大半にショールームの機能を持たせた、当時の日本としてはまさに前例のない試みだった。土一升金一升とまで言われる高価な土地に、なんと企業一社で、売り上げを見込めない、つまり利益とは無縁の単なるショールームをつくった、ということで大いに世間の注目を集めたものだった。

開業から2日後の5月1日付け日本経済新聞朝刊に、盛田昭夫がこのことに触れた文を寄稿している。

「……このビルの建設について、手放しで喜んでいいのかどうか、いまだに悩む点が無きにしもあらず、である。そのひとつは、電気の専業メーカーであることをモットーとしてきたわれわれが、日本で一番値の高い土地(中略)、そんなぜいたくな所にビルなどを建てること自体正しいのかどうか……」

さすがの盛田にも一抹の不安があったようだ。しかし、その半面で盛田にはそれなりの自信もあったと思われる。なぜなら、ソニーはその4年前の1962年9月に、ニューヨークの一等地五番街の一角に、170平方メートル(50坪)ほどのショールームを開設し、大成功をおさめていたからだ。開業に合わせるように売り出した、当時世界初の5型という小さなトランジスタテレビ(TV5-303・日本国内価格6万5000円。ちなみに当時の国家公務員初任給1万5700円)がいわば“目玉”となり、連日多くの人が押し寄せた。その盛況ぶりから日本では『五番街の日章旗』(講談社)というノンフィクションまで出版されている。まだまだ戦後からの復興途上にあった極東の国の、それも小さなエレクトロニクス企業のニューヨーク“進出”は、ソニーのブランド戦略上何ものにも代え難い強力な武器になった。