年収1000万円以上のビジネスエリートに「好きな著者」を聞いたところ、カーネギーやドラッカーを凌いで、なんと司馬遼太郎が堂々の1位に輝いた。彼らはなぜ経営書ではなく司馬遼太郎作品を読むのだろうか。

感情の揺らぎ、そして人生の揺らぎ。そこから逃げずにしっかりと向き合う姿勢も、司馬遼太郎が描く人物に共通のものである。それは人生における「偶有性」と向き合うことにほかならない。

第四のキーワードである「偶有性」の概念を端的に説明すれば、「人生どうなるかわからない」ということに尽きる。

司馬遼太郎が主に描いた幕末から明治にかけては、まさにこの「偶有性」に満ちていた時代である。自分の人生がこの先どうなるかわからない、それどころか、国の行く末さえも確証が持てない時代。

現代も同様に「偶有性」に満ちた時代である。景気は大幅に後退し、中国は目覚ましい発達を遂げ、日本のGDPは遂に追い抜かれる。今後、確実に少子高齢化社会に突入していく日本はどうやって生き延びていけるのか。

これまでの日本は、「偶有性」と向き合うよりは、むしろそれに逆行する思考法で生きてきた。組織や制度に頼ることであらゆる危険性を回避しようという安定志向は、完全に人生の「偶有性」からは背を向ける生き方である。「わが子だけはなんとか勝ち組コースに乗せたい」というお受験ブームや、就活や婚活と呼ばれる一連の活動がなによりもそれを象徴しているが、しかし、その延長線上ではもはや日本は立ちゆかないということが、薄々ながら皆に感じ取られるようになってきた。

少々意地悪な見方をすれば、司馬作品の読者とは、そのような時代の変化に気づき始めているけれど、まだ現実を見るのが少し怖い人、その代わりとして日本人が一番輝いていた幕末・明治の物語を読むことで心のバランスを取っている人なのかもしれない。

さて、司馬作品における「偶有性のプリンス」、筆頭格はやはり坂本竜馬である。土佐藩を脱藩し、江戸や京都で奔走し、前代未聞の薩長同盟や船中八策を考えついた竜馬は、まさに「偶有性」の大海を泳ぎ切った人物。時代の宿命から逃げずに真っ向から勝負した人物である。

「何でもあり」の観点からすれば、たしかに戦国時代も「偶有性」に満ちた時代であり、戦国武将の象徴、織田信長も見事に「偶有性」を体現した人物である。だが、信長は現代の感覚には合わない。桶狭間の戦いにおいても比叡山の焼き打ちにしても、信長の行動のスケールや道徳観念はやはり戦国時代ならではのもので、それを現代にそのまま持ってくることはできない。その点、竜馬の精神には現代への連続性が感じられる。たとえば、おりょうとの新婚旅行や自ら起業するアイデアなどを眺めても、彼には現代に通じる等身大の魅力が溢れている。

人生の「偶有性」に向き合うためには、ひとつ大切な資質がある。それは、楽天性、明るさである。

江戸末期から明治にかけての時代は、司馬文学というフィルターを通してみると、非常に魅力的で可能性に満ちた時代のように思えるが、本来その渦中にいた者にとってみれば、必ずしも未来への希望に溢れた時代とはいえなかっただろう。一歩間違えば他国から占領され、日本がなくなってしまう国家存亡の危機に立たされた時代である。それをあそこまで明るく描ききった司馬文学の楽天性は、「偶有性」に向き合ううえでの非常に大切なファクターでもある。

脳は楽天性がないと未来に向き合えない性質を持つ。先が見えない「偶有性」に立ち向かうために、自分を奮い立たせるにはエネルギーが必要なのだ。そのためのふくらし粉として、夢や希望を描いた司馬文学は、未来に向かって組織を率いていかなくてはならないリーダーたちに読まれ続けているのである。

(構成=三浦愛美 撮影=若杉憲司)