年収1000万円以上のビジネスエリートに「好きな著者」を聞いたところ、カーネギーやドラッカーを凌いで、なんと司馬遼太郎が堂々の1位に輝いた。彼らはなぜ経営書ではなく司馬遼太郎作品を読むのだろうか。
脳科学においては、「一回性」というキーワードが大きな課題となりつつある。たった1回きりの前例のない人生にどう向き合っていくのか、それが脳にとっての最も重要な課題である。
世に溢れるビジネス書の類は、基本的に複数回応用可能なノウハウ本である。「このような場合には、こうせよ」という人生の指南書である。しかし司馬作品において、そのような読み方は不可能だ。坂本竜馬や秋山兄弟が生きた時代は、もう二度と訪れず、その意味では司馬文学は、二度と起こりえないことを描いている「一回性」の文学ということもできる。
ならば、私たちは彼の作品から何を学ぼうとしているのだろうか。それは「人生の『一回性』にどう向き合うのか」という大命題である。前代未聞の事態に、竜馬や勝海舟ら幕末・明治の英雄たちはどう向き合ったのか。
人間の脳は、予測不可能な未来に対して、それでも何が起こるのかを必死になって読み取ろうとしている。脳の側頭連合野が、過去の記憶や経験を総動員して未来に対処しようと努力しているのだ。
過去を振り返ろうとする意思と、未来を予測しようという努力。この2つが合わされて初めて、私たちは人生の「一回性」に備えることができる。まだ来ぬ未来を待ち受ける心の準備が整うのだ。つまり司馬作品を読むことは、いわば脳内に過去の体験アーカイブをつくるようなもの。彼の作品を読むことで私たちの脳は未来への道しるべを得ているのである。
ただ、ここでひとつだけ考えていただきたいことがある。それは、過去の体験を追体験しただけでは、未来は創造できないということである。未来に対する心の準備はできても、それを実践するのは自らの高い「志」と、「偶有性」に立ち向かう行動力しかないのだ。
司馬遼太郎が生み出した歴史の世界は、「司馬史観」と称されるほど一種独特なジャンルを形成している。彼が生み出した作品は現実そのものではなく、ひとつの創作の世界なのである。
私たちに必要なことは、いかにしてその「司馬史観」を自らの人生のなかに構築していけるかということである。司馬作品を繰り返し読むだけでは、それは単なるノスタルジーとなってしまう。「昔の日本人は気骨があった」と感慨にふけるだけでは未来は築き上げられない。
上に立つ人にこそ、いまから10年後、20年後、「もし、司馬遼太郎が自分の人生を小説にするとしたら、どうなるか」、それを想像しながら人生に挑戦してほしい。人生の成功は、何の行動も起こさない人のところには訪れず、無我夢中でもがき、あがく人のところに降臨する。
幕末・明治は日本人が近代史で唯一誇りを持てる時代だからこそ、誰もがそこに立ち返っていきたくなる。しかし、我々は振り返るばかりではなく、もう一度その栄光の時代を築き上げねばならない。
『坂の上の雲』に生きた彼らには、目指すべき目標の形が見えていたわけではない。それでも彼らはそれを目指して駆け抜けていった。私たちはその精神を司馬文学から受け継ぎながら、これからの日本の将来におけるビジョンを生み出していかなければならないのである。