清水の舞台から飛び降りたら地獄
世界を舞台に、レース勝利へのあくなき挑戦。そして欧米を凌駕する最高技術の製品をつくる――。これまで見てきたように、ブリヂストンマンの情熱が会社を世界1位に押し上げたといえるが、その背景には会社存続をかけた“大きな時代のうねり”があった。それは88年の米ファイアストン買収である。80年代、タイヤ業界ではほかの産業よりも早く世界的な再編の波が押し寄せた。顧客である欧米日の自動車メーカーのグローバル化に伴い、タイヤメーカーも規模とエリアを拡大することを余儀なくされたのだ。当時、アジア地域でシェアを拡大していたブリヂストンは、欧米メーカーによる買収の格好の標的となった。危機感を抱いたブリヂストン首脳陣は、当時の新技術ラジアルタイヤへの転換に乗り遅れて経営不振に陥っていた米タイヤ2位のファイアストンとの提携に動く。
「意見交換をしながらゆっくり着実にいい関係を築いていこうとしていた矢先、ピレリがファイアストンに敵対的買収を仕掛けてきた。しかもその背後にミシュランとコンチネンタルが控えていた」(ブリヂストンCEO 津谷正明)。日米の連携の動きに、欧州連合勢が襲い掛かってきた。こうなったらファイアストンを買うしかない――。家入昭社長(当時)はこの緊急事態に、3300億円という巨額の資金を使って買収する。当時のブリヂストンの社員1万6000人、片やファイアストンは5万人を超えていた。自分の3倍もある巨体を背中に負った。かつて「石橋を叩いても渡らない」と揶揄されるほど慎重だったブリヂストンが、清水の舞台から飛び降りたのだ。
「随分、背伸びをして買収に至ったわけですが、実際に買収してみると次から次へと悪いところが出てきた」と副社長の石橋秀一が語るように、実はファイアストンの内情はボロボロだった。生産設備は老朽化が進み、現場は士気もモラルも低く、空き缶や空き瓶が散乱している有り様。根本的な立て直しが必要だった。
しかし、さらなる苦難が襲う。00年のフォード社製エクスプローラー横転事故から始まった、ファイアストン製タイヤのリコール(無償の回収・交換)問題だ。「とても苦しく、つらかった」。合併前はファイアストン側にいた、ブリヂストン アメリカス インク取締役のクリスティーン・カーボウィアックは振り返る。大量のリコールによって巨額の資金を投入したブリヂストンは、01年度に上場以来初の赤字に転落。米国の消費者から非難され、米政界からも叩かれ、そのうえファイアストンの100年来のパートナーだったフォードとの決別も余儀なくされた。
久留米発祥の実直なタイヤメーカーは、世界の檜舞台に上がった途端、異文化の激しい洗礼を浴びた。だが、この存亡の機は意外な効果を生む。「最大の試練だったが、結果的にはこの一件を通じて、日本人と米国人が1つの目標を目指して懸命に働き、真の意味で結束できた」(カーボウィアック)。