最大の効用は「心が落ち着くこと」

本を読むとき、気持ちを“仕事モード”にしておいたとしても、“リラックスモード”にしておいたとしても、得られる情報量は同じだ。しかしリラックスモードにしておくと、そこにさらに加算されるものがある。心地よさや安堵感、充実感などだ。それは、理屈で割り切れるものではないかもしれない。が、その総量によって、その読書の重みは違ってくるのではないだろうか?

いってみれば発想の転換である。読書のなかに“楽しむ”という要素を意識してみれば、「知識を吸収する」という目的を満たしながら“心を豊かにする”ことも可能になるということだ。だいいち、読むものはビジネス書であれ、自己啓発書であれ、エッセイであれ小説であれ、なんだっていい。「本を読む」という行為そのものが、心を落ち着かせてくれると考えるべきなのである。その結果、オマケ的な感じで知識や情報がついてくると考えたほうが、きっと気持ちも楽になる。

 

読書の目的は“楽しむこと”であり、その結果、知識や情報など、期待以上の副残物がついてくるのだということ。心地よい時間を過ごすことができて、なおかつ仕事に役立つかもしれない、人生に役立つかもしれない情報や知識をもらえるのであれば、それほど割に合う話はない。

とはいえ現実的に、読書はなにかと敷居が高いものでもある。楽しもうといったところで、本を前にすると無意識のうちに構えてしまうも少なからずいる。それだけではない。「読むのが遅い」「頭に入らない」というような悩みを抱えている人も、意外に多いものだ。

しかし、拙著『遅読家のための読書術』にも書いたとおり、考え方を切り替えると、読書は途端に身近なものになる。なのに“特別な行為”だと考えてしまうから、楽しいはずの読書はとっつきにくいものになってしまうのだ。でも、考えてみてほしい。たかが活字を目で追うだけの作業なのである。それは、人間が本来持っている能力で、十分にカバーできるものである。

だからこそ重要なのは、「読書に対する期待値」を下げることだ。「その読書から、なにかを得よう」とか、そういうことを考えてしまうからややこしいことになるのである。「その本から、期待していたものを得ることができなかった」ということと、「ポケモンGOでレアキャラに逃げられた」ということの間に、さほどの差はない。響く言葉がそこにあれば価値が生まれるし、なければそれだけのこと。それくらい割り切って接すれば、逆に本との関係性は親密になっていくはずだ。決して高尚なものだなんて考えてはいけないのである。「すべてを得るのは無理だけど、でも、この1行が心に残った」とか、その程度で十分なのだ。