なぜ、土壇場で人は言い訳を連発するのか?

だがこれ、笑ってばかりはいられないと思うのだ。

被告人たちは罪の意識が希薄な犯罪常習者ばかりではない。一流企業で働くビジネスマンも数多く含まれる。彼らは仕事の現場で、無駄な言い訳はするなと教えられてきたはずだ。そんな人たちが、裁判という人生の大ピンチを迎えたとき、まったく効果のない言い訳を連発するのはなぜなのか。

必死だからだと思う。

それまで事件などとは縁のない暮らしをしてきた人が罪に問われ、裁判という日常からかけ離れた舞台に立たされ、検察官から責めたてられるのだ。自分がやったこととはいえ、いや、やったことだからこそ、極悪非道な人間のように決めつける検察官のことばが不快感を募らせる。今回は悪いことをした。でも、それが自分のすべてだと裁判長に思われたらたまったもんじゃない……。

意外に思われるかもしれないが、裁判で被告人が喋ることを許される機会は限られている。

起訴事実を認めるか否かを裁判長から尋ねられるとき、被告人尋問、最終弁論時。メインは検察官と弁護人から質問を受ける被告人尋問になる。原告側である検察官は、証拠の正当性を高め、自分たちの考える量刑が被告人にふさわしいと裁判官(や裁判員)に納得させるべく質問を浴びせかけてくる。

その態度はいかにも自信満々。放っておけば重い刑に処せられるのではないかと被告人をビビらせるには十分だ。なんとかしなければ。被告人が追い詰められた気持ちになるのは容易に想像できる。

とはいえ、実際やっちゃってるし自白もしているのだ。さあどうする自分。

第三者から見たら、懲役3年と2年に大きな差を感じなくても、当事者にとって1年の違いは大きい。まして小事件で執行猶予がつくかどうか際どいようなときはなおさらだ。根っからの悪党ではないことを分かって欲しい。なにがなんでも執行猶予付き判決を!

その必死さによって、往生際の悪さがクローズアップされる、筋の通らない言い訳が生まれるのだと思う。犯行の悪質さを印象付けたい検察官にしてみれば、被告人の過剰反応は待ってましたの好材料だ。

でも思う。そんな理屈は被告人もわかっているはずだ。それでも言わずにはいられない。検察官の主張が判決の行方を左右しそうでガマンがきかない。