華僑ネットワークとの出会い

――ゴールドマンマンサックスでLBOファイナンスをやっていた小川さんが香港の企業の社長になったのはどのような経緯ですか。

私は慶應義塾大学経済学部を卒業後に79年にトーメン入社しました。米国のニューヨーク駐在となってからは知人からメリルリンチ大幹部だった守屋寿さんを紹介され、いろいろお話を聞くうちにグローバルな金融ビジネスに憧れるようになりました。そこで一念発起し、コロンビア大学でMBAを取得してゴールドマン・サックス・アンド・カンパニーに入社し、LBO(レバレッジド・バイ・アウト)を担当するようになりました。ここでタームシート(条件提示書)を銀行に提示し交渉する仕事などに携わり、金融機関と交渉する経験を積みました。ちょうど時代はバブルに入ったころでLBOが盛んでしたから多くの経験を積むことができました。その後、東京でシンジケートローンの仕事をしていたのですが、当時は自分でアジアを見据えたファンドをやろうとう思っていたのです。そんなときに香港の10大財閥のうちの一つから社長をやらないかと声がかかったのです。

――なぜ小川さんだったのですか。

1990年前半に日本のバブルが崩壊して、彼らは日本の不良債権を買い始めていたのです。しかし、彼らにはまだグローバルな金融の知識がなかった。そこで国際金融の知識と経験のある人間を探していたんだと思います。ただ彼らは日本人で使える人間を探していました。どうやら彼らは日本人は真面目で裏切らないないだろうと考えていたようです。それで自らファンドを立ち上げようとプロポーザル(企画の提案)をしていた私に白羽の矢が立ったようです。私はGSでLBOファイナンスを始め、さまざまな金融取引に携わっており、海外への投資の経験もありましたし、日本人です。そんなところを評価してくれたんだと思います。こうした経験から、今度は香港のコングロマリット「ファー・イースト・コンソーシアム・インターナショナル・リミテッド」の社長に就任し、そこから香港や中国本土だけではなく、いわゆる華僑たちと深くかかわるようになりました。

――華僑の金融ビジネスはどのようなものだったのですか。

私がラッキーだったのは、華僑のビジネスを内側から見ることができたことではないでしょうか。彼らは大型の買収をするときにはよく、シンジケートを組みます。シンジケート会議に出て、彼らがどのようなビジネスをやるのかを見ることができたのは大きかったと思います。彼らはドナルドトランプが一度倒産したときに、マンハッタンのコンレール跡地マンション再開発時事業を買収していますし、ロサンゼルスの高級ホテル「ビバリー・ウィルシャー・ビバリーヒルズ」を買収しています。4件ぐらいやっていたと思います。しかし彼らはグローバルなファイナンスのノウハウがない。だからずいぶん重用してもらいました。みんな会議では中国語でやるのですが、私が会議に参加するときには英語になる。そのような中で彼らのビジネスに対する考え方も見えてくる。非常に勉強になりました。