良質なジャーナリズムは必ずしも利益につながらない。その意味で、「新聞はピュリツァー賞を受賞するような記事ではなく、読者が読みたいと思うような記事を載せてこそ生き残れる」と断じたマードックは正しい。その言葉通り、マードック傘下に入った2007年以降、WSJの同賞受賞は2011年の「社説」にとどまる。アメリカ最大の経済紙でありながら、「100年に一度」と言われた経済危機が起きた2008年にも受賞を逃した。

情報誌や娯楽誌などのメディアは利益を生み出す道具になる。だが、「権力のチェック」をはじめ、民主主義社会に欠かせない機能を担うジャーナリズムは利益に直結しない。だからこそアメリカでは「ジャーナリズムは公共サービス」とも言われるのだ。ピュリツァー賞で最も栄誉ある部門も「公共サービス」だ。

それもそのはず、ピュリツァー賞の生みの親であるジョセフ・ピュリツァーの理念こそ「ジャーナリズムは公共サービス」なのだ。

具体的にはどんな理念なのか。コロンビア大学ジャーナリズムスクール創設を記念してピュリツァーの息子ラルフ・ピュリツァーが1912年12月、同スクールで78人の第一期生を前に講演している(ジョセフはすでに他界)。演題は「ニュースの正確性」だった。

「父にとって新聞記事の正確性は宗教のようなものでした。(中略)新聞にとっては、ニュースが正確であるかどうかの検証作業がますます重要になっています。責任ある新聞であれば、ニュースの発掘に四ドルかけるとすれば、そのニュースが正しいかどうかの事実確認に六ドルかけるべきでしょう」

事実よりもセンセーショナリズムを優先する「イエロージャーナリズム」が横行していた100年前に、「ニュースの正確性」を標語にしていたのである。

東日本巨大地震で未曽有の危機に直面している日本では、原子力発電所の事故などをめぐって玉石混交の情報が氾濫している。インターネット上では明らかなデマ情報に加えて、「役に立つのでは」という善意で流されたのに実は不正確だったり事実誤認だったりする情報もある。政府発表の情報さえも信頼性に欠ける。

こんな状況下で暗闇に火をともすような役割を担うべきなのは、職業ジャーナリストである。事実確認の徹底など情報の正確性を追求する点で専門的な訓練を積んでいるからである。「正確な情報を伝える」というメディアの役割はかつてないほど高まっている。政府発表をたれ流すだけでは、メディアは本来の役割を果たしているとはいえない。

マードックによるダウ・ジョーンズ買収を機に、バンクロフト家は持ち株を高値で現金化し、WSJはますます商業主義に走っている。その裏で、WSJ内ではアメリカ流の「良きジャーナリズム」の精神が忘れさられようとしている。(敬称略)

2011年4月、カリフォルニア州クレアモントにて