2010年8月26日、民主党前幹事長の小沢一郎が9月の代表選に立候補すると表明し、再選を狙う首相の菅直人と全面対決することになった。

同日付のウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)も一面で報じた。過去24時間以内に起きたニュースをひとまとめにして見せる「ホワッツ・ニュース」の中で、こう書いている。

「小沢一郎が与党・民主党代表の座を目指し、首相のナンと全面対決する計画だ」

アメリカを代表する有力紙が、世界第二位の経済大国の首相の名前を誤って「カン(Kan)」ではなく「ナン(Nan)」と表記したのである。しかも最も目立つ一面で、である。ひと昔前のWSJであれば、こんな単純ミスはあり得なかっただろう。

実は、WSJは半世紀以上にわたって「全米で校正を最も徹底している日刊紙」として知られていた。「WSJ中興の祖」バーニー・キルゴアによる「キルゴア改革」の精神を守り続けてきた結果である。

キルゴアは1941年に編集長に就任すると、「ウォール街のゴシップ紙」から「アメリカを代表する一流紙」への脱皮を宣言した。「誤字・脱字が続けば、記事の内容まで信用してもらえなくなる」と考え、校正を徹底して誤字・脱字の駆逐を目指したのである。

「カン」を「ナン」と表記するような単純ミスは、WSJの親会社ダウ・ジョーンズがメディア王ルパート・マードックの傘下に入ったことと関係しているかもしれない。

というのも、本書の中にも書いてあるように、マードックはダウ・ジョーンズ買収後「WSJでは記者が書いた原稿は、印刷所へ回される前に平均すると8.3人に読まれている。何ともばかげた話だ」と一蹴したからである。「全米で校正を最も徹底している日刊紙」という評判を守るよりも、原稿を読む編集者の数を減らしてコストを下げる方が重要らしい。

本書のテーマは、マードック率いるニューズ・コーポレーションによるダウ・ジョーンズの買収だ。彼にとってWSJはかねてあこがれだった。「メディア王」と呼ばれるようになってもなお、のどから手が出るほど欲しいメディア資産だった。

ニューヨーク・タイムズなどと並んでWSJが「アメリカを代表する一流紙」であったからこそ、マードックも魅力を感じたのである。ところが、彼はキルゴア改革を否定しようとしている。WSJを一流紙の地位に押し上げた原動力がキルゴア改革であるのに、である。

キルゴア改革の目玉は何だったのか。言うまでもなく、誤字・誤植の追放だけでは一流紙にはなれない。最大の目玉は、いわゆる「日付モノ」「逆ピラミッド型」が象徴するストレートニュース(速報ニュース)をわきに追いやり、長文の読み物である「フィーチャー記事」で一面を全面展開することだった。

キルゴア改革によってWSJ流フィーチャー記事が生まれ、アメリカの新聞ジャーナリズムに革新が起きるのである。WSJ出身のベテランジャーナリストであるディーン・スタークマンは「ジャーナリズムの世界でキルゴアが果たした役割は、精神分析の世界でフロイトが果たした役割に匹敵する」と記している。

ここで、キルゴアが編集長に就任した1941年当時のWSJを振り返ってみたい。

私が講談社の『現代ビジネス』で連載しているコラム、「ジャーナリズムは死んだか」の中でも、アメリカのジャーナリズム史を語るうえで欠かせない出来事としてキルゴア改革に触れた。新聞報道の質を高めるにはどうしたらいいのかを考えるうえで、貴重な判断材料を提供してくれるのだ。

キルゴアは編集長に就任早々「一面トップ記事にふさわしいのは全国のビジネスマンを念頭に置いて書いたフィーチャー記事」と宣言した。通信社電のように事実を単純に伝えるストレートニュースが全盛の時代、「なぜ」「どのように」に力点を置く長文記事への切り替えを目指したのだ。

その一環として、彼は一面記事としては日付モノと逆ピラミッド型を禁じ手にした。当時の新聞界の常識と照らし合わせると、異例の決断だった。