有力誌「ニューズウィーク」は2008年12月の時点ですでにこう書いている。

「ジャーナリズムの発展にWSJがどんな形で貢献したのだろうか? おそらく最大の貢献は一面の『リーダー』だ。にもかかわらず『リーダー』がなくなろうとしている。編集局内から悲鳴が聞こえてくる」

キルゴア改革を否定すれば、WSJは「普通の新聞」になる。実際、一面を見る限り一般紙と変わらなくなっている。カラー写真が多用され、数段抜きの大見出しが躍っているのだ。以前は写真を一切排除して白黒のイラストを使い、見出しは控えめな一段見出しに限っていた。

テーマも経済や企業、金融といった分野以外も幅広く扱うようになっている。2011年2月28日の一面が象徴している。全六列(段)のうち三列を使って、派手なカラー写真をど真ん中に載せている。アカデミー賞の「レッドカーペット」に現れるハリウッドスターの写真だ。

私はWSJのほかニューヨーク・タイムズやロサンゼルス・タイムズなども定期購読しているが、WSJと思って鞄に入れた新聞がニューヨーク・タイムズだったこともある。一面をちらっと見る限りでは、一般紙と見分けがつかなくなったということだ。

もはやWSJは往年の紙面を取り戻せないかもしれない。本書にも書いてある通り、経験豊かなベテラン記者が次々と退社しているからだ。リーダーを書いてもストレートニュースに押され、何カ月もたなざらしにされる状況に嫌気が差したのだ。ストレートニュースを書く記者はいくらでも補充できる。だが、魅力的なフィーチャー記事を書く記者は簡単に見つけられないし、社内で育成するのも容易ではない。

WSJのベテラン記者の一人、ウォルト・モスバーグは今も同紙の看板IT(情報技術)コラムニストとして活躍し、業界最高峰の報酬を得ている。もっとも、彼がWSJにとどまったのにはやや特殊な事情がある。「私が書く記事の内容については間接的にも直接的にも一切干渉しないでほしい」という条件を出し、マードックにのんでもらったいきさつがあるのだ。

アメリカを代表する一流紙がなぜマードックに身売りしたのだろうか。創業一族のバンクロフト家はダウ・ジョーンズ議決権株の三分の二を握っていたものの、一世紀以上に及ぶ歴史のなかで一族の間で持ち株が分散していった。そんな状況下にありながら、オーナー家は強力な社主を送り込むこともなく、総じて経営に無関心だった。そこにマードックが付け入る余地が生まれたのかもしれない。

歴史をひもといてみよう。

1940年代以降のキルゴア改革が大成功したことによって、親会社ダウ・ジョーンズは常にジャーナリズムを第一の経営課題に据えるようになった。1963年の株式公開以降も、いたずらに利益を追い求めずにジャーナリズムを優先した。これが結果的にビジネス上の成功につながり、ダウ・ジョーンズの繁栄は1980年代にピークを迎えた。

ジャーナリズム優先の経営が成功したことで、バンクロフト家はダウ・ジョーンズの取締役会に一族メンバーを送り込みながらも、経営には一切関与せず、配当を受け取るだけで満足する姿勢を続けた。悪く言えば、経営陣の判断を無条件で認める「ラバースタンプボード(ゴム印を押すだけの取締役会)」に成り下がってしまったのだ。

この点ではニューヨーク・タイムズのサルツバーガー家やワシントン・ポストのグレアム家と違った。両家とも社主として経営に積極関与し、時としてジャーナリズムを守るために大きなリスクを取ることもある。ウォーターゲート事件当時のワシントン・ポスト社主のキャサリン・グレアムが代表例だ。彼女はニクソン政権のあからさまな圧力を跳ね返し、同紙によるウォーターゲート事件報道を続行させたのである。

対照的に、ダウ・ジョーンズでは伝統的にオーナー一族ではなくWSJの記者出身者が経営トップを務めてきた。例えば、1991年から2006年まで同社最高経営責任者(CEO)を務めたピーター・カーンは、WSJ記者としてピュリツァー賞を受賞したこともあるジャーナリストだ。

「ジャーナリストに上場企業の経営はできない」という見方を裏付けるかのように、1990年代以降のダウ・ジョーンズは失速した。採算を度外視して新規事業へ投資したことなどが裏目に出た。それでもバンクロフト家は経営には介入せず、基本的に静観するだけだった。

バンクロフト家では持ち株が分散したため、一族全員が「キルゴア改革の精神を守る」という点で結束するのは難しくなっていた。一族を結び付ける共通項はジャーナリズムという名の「公共性」ではなく、持ち株をいかに高く売るかという「カネ」になってしまった。

マードック傘下に入ったWSJは派手なカラー写真を使ったり、短いストレートニュースを重視したりするなどで、ひょっとしたら経営的に成功するかもしれない。だからといって、単純なストレートニュースではなく、深く掘り下げたフィーチャー記事が象徴する良質のジャーナリズムがなくなってもいいのだろうか。