宮城県塩竈市には20数社のかまぼこメーカーがあり、生産量は日本一を誇る。なかで、1935年創業の「海の駅 武田の笹かまぼこ(会社名・笹の浦)」は年商5億円と中規模ながら、人気観光スポットとして年間12万人の観光客を集めていた。
3階建て施設の1階に見学もできる笹かまぼこ工場や地元特産品の販売コーナー、2階にレストラン、3階には笹かまぼこの手焼き体験ができる潮風広場が設けられている。
塩竈港の近く、貞山堀という伊達政宗が築いた日本一長い運河の脇に、武田の笹かまぼこは立地していた。今回の津波は、運河の堤防を軽々と越え、製造ラインも濁流に浸かってしまう。水が引いた後には5cmのヘドロが残った。
2階にはレストランのほかに、64畳の大広間があり、津波が引いた後、施設は一時避難所となった。住民約60名が、ここで2週間ほどを過ごすことになる。その間、電気と水は止まったままだった。自家発電装置もあったが、ガソリンがない。電気や水道が回復するのは、3週間から1カ月後である。ガスだけはプロパンのLPガスだったので、不自由なく使えた。加えて、2階にレストラン用の食材が蓄えられており、食べ物は比較的豊かであった。
地元では「贅沢な避難所」と感謝されたが、一時避難所では救援物資が届かない。市役所に掛け合い、途中からは正式の避難所にしてもらった。
震災後のてんやわんやの中、新たな不幸が襲う。3月14日に社長の武田悦一が亡くなったのだ。享年69歳。地元とともに発展する経営が信条で、市議会議員まで務めたが、半年前から持病で寝たきりとなり入院していた。
社長はすぐに3代目にあたる長男の武田和浩(40歳)が継いだが、遺体の火葬は1週間後になった。順番待ちを余儀なくされたのだ。告別式は1カ月以上経った4月24日に社葬で行われた。
この日を告別式に決めたのには理由があった。別の企業に勤める次男の智己(36歳)が隣の多賀城市で被災し、津波に追われて九死に一生を得ていた。その次男の誕生日が4月24日であった。
「父が身代わりになってくれたとの思いがあり、その日を再出発の日にしようと、家族で決めました」