数値化できない音を判断する「黄金の耳」

【弘兼】テクニクスの音響機器はネットワークオーディオとCDの再生を念頭に置いていますが、CDの音というのは人間の耳で聞き取れない低音と高音を切り落としているそうですね。素人の素朴な疑問なんですが、カットした部分はテクニクスの高級な機器で再生しても聞こえないのではないでしょうか。

【小川】楽器というのは、広い音域を持っています。聞こえないとしても、その部分が音の厚みになっていました。昔のデジタル処理というのは、あるところからスパッと音域を切っています。人間が「いい」と感じる音というのは、やはり自然の音。テクニクスの音響機器は、様々なデジタル処理で元の音楽の波形に戻すという処理をしています。

【弘兼】なるほど、そんなことができるんですね。考えてみると数値化できない音の世界で、テクニクスの責任者としてリーダーシップをとっていくのは大変そうです。

小川「今は音楽が多様になっている。CDもあればネットでダウンロードもできる。一方、アナログのレコードもまた人気が復活しています。その多様な音の世界に最高水準で応えていきたいんです」

【小川】確かに嗜好や耳のよさには個人差があります。でも音を聴いたときには感情が動くのだから、何か生態的な変化があるはず。それを数値化できないかと考え、いろんな人の脳波を取ったこともありました。テクニクスの品質は、1次評価、2次評価、3次評価と段階を経て評価を受ける。その中で私はオーディオ業界で呼ぶところの「ゴールデンイヤー(黄金の耳)」という、最終判断を下す役回りを担っています。いい音というのはこういうものだという価値観のもとに、たとえば「はっきり聴こえる」という意味の「キレがいい」という音の表現用語が、実際どの技術スペックに紐付いているのかを明らかにしていきます。最終的には、部品を1つ取り換えると音がどのように変わるかというところまで突き詰めていきます。

【弘兼】そこまでやるには「いい耳」を持っていなければなりませんね。耳を鍛える方法はあるのでしょうか。

【小川】とにかくいい音を聴くことですね。音響研究所に入ったばかりの頃、始業時間まで1時間視聴室に籠もって音を聴いていました。

【弘兼】ところで、パナソニックを退社してジャズ一本で行こうと揺らいだことはなかったのでしょうか。

【小川】ありますね。アメリカの音楽レーベルのプロデューサーから「おまえはパナソニックでずっと働いても社長になれないんだからプロになれ」と言われたときは、気持ちがグラッと揺れました。でも、いろんな人に相談してみると、「会社で仕事をしながらジャズをやる、これが小川さんらしいのではないか」とおっしゃる人ばかりだったので、踏みとどまることができました。

【弘兼】僕とは逆です。僕は宣伝部で仕事は面白かったのですが、漫画のほうがもっと楽しいと思って辞めてしまった。「二足のわらじ」を両立するのは大変でしょう?

【小川】毎日のなかでジャズの練習時間はなかなか取れませんね。それでも演奏会が近づくと毎朝5時に起きてちょっとでも練習したり、夜中に10分、15分指を動かしたりはしています。