日和山から目と鼻の先に住んでいた笹谷由夫さんの自宅も全壊だった。それよりも辛かったのは、当時20歳と19歳の2人の息子を亡くしたことだ。

「震災当日は津波の水が引かず自宅に近寄れなかった。何度も何度も声を枯らしながら、息子の名前を呼びましたが返事はありませんでした。仕方なく車の中で、のど飴だけで一夜を過ごしました。幸い妻は無事でしたが、子ども2人が見つからない。これほどの大災害だから、もう何もいらない。子どもさえ無事であれば、そう思って必死に避難所を探して歩いたんです」

しかし、1週間後に長男、その後次男の遺体とも対面することになる。真面目だった自慢の息子たち。年が近く双子のように仲が良かったという。

「2人の遺体は、悟りきったように穏やかな顔をしていました。それだけに、守ってやれなかったことが本当に辛かった。俺が殺してしまったんだと、自責の念にとらわれました」

当時をこう振り返る笹谷さんは、自宅のあった場所に息子2人から1字ずつを取った「舟要観音」と「兄弟地蔵」を建立し、今も手を合わせる日々を送っている。

「息子のことだけではありません。喉元過ぎれば、ではありませんが、亡くなった方々がないがしろにされているような気がするんです。ですから、毎日祈りを捧げます」

そんな笹谷さんも、日和山への思いはひとしおだ。

「小さい頃から当たり前にあったのが日和山です。心のよりどころでした。はまなすが群生していたり、お祭りがあったり。姿形は変わりましたが、蒲生の象徴として日和山だけは残ってくれた。私のように、この山に強い思いを抱いている人も多いでしょう」

もともと日和山周辺には蒲生干潟があり、仙台海浜鳥獣保護区の特別保護地区に指定された自然豊かな地域。鯉の養殖でも有名だった。山頂からはバードウオッチングを楽しむこともできたという。蒲生ふるさと会会長の佐藤さんはこんな希望を持っている。

「もうここに住むことはできませんが、木を植えていずれ緑豊かな場所にして、日本一の日和山に多くの野鳥が再びやってくるようにしたいですね。私たちの大切なふるさとですから」

大津波に耐え抜いて「日本一」の座を奪回した日和山。そこに、艱難辛苦を乗り越えつつある人々が、筆舌に尽くせぬ思いを託しているように感じられる。実際に見れば笑みがこぼれてしまうような小さな山に、大いなる誇りが刻まれている。ふるさとを大切に思う強い気持ちと、それぞれの願いが込められている。日和山の山開きは、今年も7月1日に行われる。

(撮影(日和山) 時事通信フォト=写真)
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