心臓が15億回打った時点が、命の限界
父はガンの手術を3度受けています。
1度目は10年ほど前の患った腎臓ガンでひとつを全摘して完治。2度目、3度目は肝ガンでこちらは完治しませんでしたが、手術のおかげで10年の時間が与えられたといえます。この10年間は元気に暮らしていましたし町内の友人たちとレジャーも楽しんだ。余生を謳歌したわけで、医療には感謝していますが、その一方で最期の状況を目の当たりにし、また、専門家から聞いた介護の今後なども考えると、医療の力で命を引き延ばし過ぎるのはどうなんだろうか、とも思うようになりました。
そんな心境になった私は生物学者が書く本を読むようになりました。最初、その関連の本で頭に浮かんだのは以前読んだことがある『ゾウの時間、ネズミの時間』でした。動物生理学者の本川達雄氏が書いた本で、動物は体の大きさによって進む時間が異なるということが書かれていました。この本で、生命に与えられた時間をもう一度確認したくなったわけです。が、本棚の奥を探しても発見できず、同じ本川氏が最近書いた『生物学的文明論』を買って読むことにしました。
この本は、その時の私の心境にぴったりの内容でした。たとえば、動物は心臓が15億回打ったところで死ぬという話。どの動物も調べてみると心臓が15億回打った時点で命の限界を迎えるというものです。大きな動物は心臓がゆっくり打つから長生き、小さな動物は早いから短命。だからゾウは70年近く生き、ハツカネズミは3年足らずで死ぬというわけです。で、ヒトの心臓が15億回打つのは41歳ぐらい。縄文人の寿命はそれよりも短くて、31歳ぐらいだったそうです。
生物学者は専門とする生物のさまざまな生態を研究していますが、結局のところ生物の生殖活動を調べているといえるでしょう。どの生物も遺伝子の伝達、つまり生殖のために生きている。各生物特有の生態もどのように子孫を残すか、ということに帰結するからです。そして種を残す役目を終えるとさっさと死んでいく。役目を終えた存在が生きながらえると限られたエサを子と奪い合うことになり、種の保存という命題に反するわけです。
狩猟採集の生活をしていた縄文人もそうした生物と同じ仲間でした。31歳という寿命も計算に合います。生殖能力を持つ10代で子をつくり、その子が自分で食糧を獲得し子をつくれるところまで育てた頃、死ぬというわけです。