「89まで生きたんだから十分じゃないか」

同時にその時、介護とは「悲しい努力」だとも感じました。

もちろん介護は要介護者の体や心の状態を少しでも良くするために行うものです。そのために私もできる限りのことをしたつもりですし、ケアマネージャーや訪問看護師さんなどお世話になった人たちは精一杯の努力をしてくれました。

その結果、状態が改善に向かう人もいるでしょう。父の友人などは要介護度3まで行ったのに、そこから驚異的な回復をし、今では散歩をできるまでになっています。ただ、そうしたケースは稀で、やはり多くは手を尽くしても衰えていく。そして看取ることで介護から解放されるわけです。

だからといって父の介護に費やした1カ月半ほどを徒労だったと思っているわけではありません。

感情をぶつけ合うこともありましたが、最後に父と濃密な関係を築けたのはよかったとも思います。ただ、父の死によって介護から解放された時、悲しい努力をしていたんだ、と感じたわけです。

とくに父の場合は衰えが急過ぎました。日に日に体の自由が利かなくなっていく。手からひじにかけては皮下出血をしていて、触れると激痛が走り皮膚が破けるような状態でした。また、認知症を発症してからはその症状が急激に進みました。寝たきりになる直前まで元気に普通の生活をしていた父でしたが、介護でそうした衰えを目の当たりにすると、「親父の体は限界にきていたんだな」とも思いました。

ところが寝たきりになった当初、父は生きることへの執着心を感じる言動をさかんにしました。

死期が近いのを感じたのかもしれません。誰だって死は怖いものですし、そうした感情を持つのも解からないわけではありませんが、介護に疲れている時などは「89まで生きたんだから十分じゃないか」と心の中でつぶやいたこともありました。

たった1カ月半でも、こんなことを考える。介護が長期間に及んでいる家では、こういうことを思っている人も多いのではないでしょうか。そして今後、そうした介護に直面する家がますます増えるわけです。

父を看取り、葬儀やその後の諸手続きを済ませて少しの間、放心状態になり、そこから少し冷静になって介護というものを考え、介護でお世話になった方々と会った。そこでウチのケースをはるかに上まわる介護状況にある家の話を聞いた。それで前回(http://president.jp/articles/-/13824)に書いたような介護の専門家が語る「医療の発達は果たしていいことなのか、考えちゃいますよね」という言葉に深く頷いたわけです。