「買う」のか「買わされるのか」。それが分かれ道
悩ましい問題です。果たして、同じ「自分基準」なのに、貯まる人と貯まらない人がいる。この違いは何なのでしょうか。
私の結論は、こうです。
両者の差は「主語」です。モノを欲しがるときに、「自分」が主語になっているかどうかです。
貯められる人は、あくまで自分が起点となって、モノを得ることで「自分が働きやすくなる」とか「自分の生活に必要だ」とかを考えて、決断します。
一方で、貯められない人の「自分基準」は、自分基準のようで、実は聖域の対象となるモノが主語となっているのです。
「この教育が、わが子に必要だ」「新しいモバイルツールが出た」「流行のファッションがステキ」といった具合です。
つまり、外部からなんらかの影響を受けて、買うことを決断している状態です。
まあ、それも突き詰めれば、“本物”になるかもしれません。しかし、中途半端に流されて消費してばかりいて、貯蓄ができないとしたら問題です。
他人の価値観に良し悪しの判断は難しいものですから、“聖域”を一概に悪い、とはいえないかもしれません。しかし、思うようにお金が貯まらないとしたら、やはりそのことには気が付くべきです。
収入には限りがあります。ところが、外部から欲しくなる刺激は無限といってもいいでしょう。そもそも合致しません。どこかで物欲にケリをつけなければ、キリがないのです。
そこに一線を画せるかどうか。
自分を主語に必要なモノとそうでないモノの区別ができるかどうか。ここが貯められる人と貯められない人の大きな違いだと思います。