「櫻田とは、何者だ」。そう問われ、部長が「どういうことか?」と聞き直すと、「あいつは俺のところへきて、改革案をとうとうと説明したので、『ラジカルすぎるからダメだ。こうやって、こうしろ』と言ったら、『ご指摘の通りです。目から鱗(うろこ)が落ちました』と言って帰った。それなのに、直したとして出てきた案は、全く変わっていない。櫻田の目には、いったい鱗が何枚あるのか聞いておけ」と怒った、という。

嘘などついていないつもりだったが、人への説明は難しい。でも、逃げるのは嫌だから、役員らへの説明を続ける。順を追って幾度も話し、説明力も磨かれていく。最後は、みんなが「仕方ない」と受け入れてくれた。たとえ悪評が出ても、正しいと思うことは主張し、貫く。アジア開銀で鍛えた櫻田流の一つだ。

そのアジア開銀の本部があるマニラには、92年3月に赴任した。世界の63カ国からきた博士号や修士号を持つ人が、揃っていた。人事予算局に配属されると、インド人の課長に「きみの英語力では仕事にならないから、このままでは正社員にできない」と言われる。やむを得ず、英語の経済誌を読み、上手な英文を暗記し、日本人以外と食事をするようにして3カ月。ようやく、正社員になれた。

4年間いて、国籍の違う部下を使い、多様な文化や風習に接し、「異なるもの」を受け入れる大切さを知る。いま、元々は6つの会社からなる合併を主導する際、「多様性の尊重」を軸に置き、揺らがない。

人事制度改革の次に、98年4月から社長室で、財務内容の改善を担当した。銀行や証券会社、生命保険会社の経営破綻が続くなか、損保各社はまだバランスシートにゆとりがあり、業界も社内も危機感は薄い。ただ、日米金融摩擦や金融ビッグバンの進展で、前年に損保の保険料も自由化され、横並びで安泰の時代は終わろうとしていた。

当時、安田火災の株式の約3割を外国人が持っていた。初代のIR室長も兼務し、アナリストや格付け機関との会談もこなすなか、「利回りが悪く、値上がりもしない保有株が多い」と指摘される。銀行や生保に多くみられる取引先の株式、いわゆる「政策株」のことだ。リスクを圧縮する意味でも同感で、削減案をつくったが、「営業上必要で持ってきた株式に手をつけるなど無理」「たとえ株価が下がっても、まだ含み益があるからいいではないか」と、またも社内の非難を浴びる。