僕はもちろん日本が大好きだが、この国では、いつまで経っても不合理な慣行がなくならないことだけは困ったものだ。
たとえば、会議の席で誰かの批判めいたことをいうとする。あなたが年長者ならいいのだが、年が若いとか新参者であれば「生意気だ」と決めつけられ、陰口を叩かれ、足を引っ張られる。つまり大方の参加者にとっては、「何をいったか」ではなく「誰がいったか」が重要なのだ。
本来、発言で大事なのは「理はどちらにあるか」。反発するなら、発言の内容に対してするべきだ。僕は若いころから、思ったことは腹蔵なくぶちまけるたちだ。だから、若いころはさんざん陰口をいわれたし、いろいろ損をしたこともある。
しかし、その場で発散してしまうから余計なストレスは感じなかった。いまとなっては、つくづく得な性分だと思っている。
こんな性格になったのは、技術者だった父の教育によるところが大きい。父は航空機技術者で、零戦の開発責任者まで務めたが、愚痴や陰口が何より嫌いな人だった。
父から学んだのは「子ども相手でも、合理的で納得できる教え方、叱り方をせよ」ということだ。技術の世界では、相手が先輩であろうと、間違っていたらそれを指摘し、検証しつづけなければプロジェクトの成功はおぼつかない。つまり、きわめて合理的だ。「愚痴をいうな、その場で堂々と話せ」という父の教えも、精神論ではなく、そうしたほうが問題の解決が早いからだ。
僕は父の教えに納得し、大学の世界へ入ってからも、異論を述べるときは「先手、先手」でやることにした。だから「生意気な奴だ」と相手を怒らせることもあったが、そのうちに「生意気だが面白い」という評価を得て、次々と学内外の新しいプロジェクトに携わることができた。
いまでも就職を控えた学生には必ず、「入社したら、最初から『変わった奴』と思われたほうがいい」とアドバイスをしている。