1587年8月21日の『多聞院日記』には、こう記されている。
ナラ中ミソ・酒・材木以下諸商買堅以停止、於郡山可有賣買由堅固ニフレ了ト、沈思ヒト事也、畠菜ヲマク
筆者訳:奈良の町中では、味噌、酒、材木をはじめとする一切の商売が固く禁止され、郡山で売買を行うようにと厳重にお触れが出されたとのことで、深く考えさせられる(思いやられる)ことである。畠に菜の種をまく。
もう日記に「沈思ヒト事也、畠菜ヲマク」とあるあたり、もはや先行きもどうなることかわかったものではない、陰鬱とした当時の空気感が滲み出ている。
こうした中で、飴を与えられる者もいた。前述の多武峯もそうだが、秀長の構想に従って郡山に移住した者たちである。前述の天野氏によれば、当時の郡山には、綿町、紺屋町、本町、魚塩町、材木町、鍛冶屋町といった町が並んでいた。町名のとおり、同業者を一カ所に集めて住まわせていたわけだ。しかも、紺屋町には藍染めの独占まで許されていた。
こうしてみると、旧来の社会構造や既得権益に固執するものにとっては災害だが、新たな政策で成功を図る者には秀長の政策は有益だったし、秀長も飴を惜しまなかったことがわかる。
そこまでしても、郡山の繁栄は続かなかった
しかし、ここまでやって築いた郡山も大和の中心都市にはなれなかった。秀長の死後、その後を継いだ秀保、増田長盛と統治者は変わったが、関ヶ原の戦いで長盛が追放されると衰退。
その後、復興するも経済の中心は再び奈良へと移っていった。
現在も人口は奈良市は約34万5000人なのに対して、大和郡山市は約8万人(2026年10月1日現在)と3倍以上の差を付けられている。
ドラマの秀長は、商いを成功させて人を呼び込んだ。史実の秀長は、よその商いを止めて人を追い込んだ。ドラマのタイトルは「和を以て、大和をなす」だが、史実では、「和」の前に、まず、徹底的に「禁」を置いた……「和」などなかったのである。
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