一方で、百姓への支配もまた苛烈だった。『多聞院日記』によれば、1587年8月、検地にあたって役人に贈り物をして緩和を求めた庄屋37人が、不正だとして捕縛されている。
ようは、賄賂で年貢を軽くしてもらおうとしたことが罪になったのである。しかし、当時の百姓にとって、これは衝撃的な出来事だった。検地のとき、幾ばくかの贈り物で役人に目をつぶってもらうのは、当然のことだったからだ。
さらに、秀吉は度量衡の統一をはかり、枡を京枡に統一するよう命じていた。そのため、大和の検地でも京枡が用いられた。権力者の側からすれば、収穫量を間違いなく把握できる道具である。だが百姓にとっては、収穫量のごまかしが効かなくなる。すなわち、実質的な増税となるシロモノだった。
こうして見ると、秀長の大和支配は、ドラマの描かれ方とは裏腹に、非常に冷徹なものだったといえるだろう。
郡山に移らなければ、寺領は与えない
そんな政策のひとつとして実施されたのが、多武峯の郡山遷座である。
多武峯は、藤原鎌足をまつる大和の古刹で、現在の談山神社にあたる。その鎌足の木像(大織冠)は、霊宝として知られていた。1585年に秀長が大和に入ると、この寺にも、さっそく介入が始まっている。
河内将芳「新多武峯と大織冠遷座について― 豊臣政権と霊宝に関するノート ―」(『立命館文學』第605号)では、秀長の重臣・横浜一庵良慶は10月3日付の書状で、郡山近辺に坊舎を建てて移る者には寺領6000石を渡すが、そうしない者には一切渡さない、と通告したことに触れている。
つまり、郡山への移住に従う者には飴を与え、従わない者には何も与えないというわけだ。
多武峯の内部は、すでに割れていた。これに先立つ9月、秀吉が山上の坊舎を麓に移すよう命じると、老衆と対立していた若い僧たちは逃散している。翌年正月に三輩(寺の最高意思決定を担う僧の集団)が連署した起請文も、36人のうち花押があるのは21人にとどまる。上層部にも、郡山への移住に難色を示す者がいたことがわかる。それでも多武峯は結局、移住を受け入れ、1588年4月、鎌足像は郡山の新しい社殿へ移された。
武士の身分を奪われ、自ら命を絶つ者も
これも、また郡山を城下町として発展させることをめざした政策の一環であったというのが、前述の天野の見方である。
天野氏は、「秀長としても、さまざまな職人や今井・奈良・堺からの移住者から構成される新しい郡山城下町の鎮守、新都市の総氏神を求めていたのだろう」とする。秀長は菊亭晴季(今出川晴季)の養子となって藤原氏を名乗り、春日大社にも20回以上参詣するなど、藤原氏との由緒に自覚的だった。鎌足をまつる多武峯は、郡山の氏神として最適だったというわけだ。さらに、天野氏は6000石の領地と衆徒を郡山に移せば、貢米と人が集まり、換金と消費も促される。城下町の経済振興策としても理に叶っていたとも指摘している。
ようは、秀長は郡山を発展させ、新しい経済基盤をつくるために、旧来の既得権益には鞭を振るったのである。寺社勢力は、権益を奪われながらも生き延びることができた。しかし、そうした者ばかりではない。

