とりわけ過酷だったのは、国衆の扱いである。伊賀国に転封となった筒井定次に従わず、大和に残った国衆の中には、秀長の統治下で郷代官として用いられる者もいた。だが、彼らも次第に武士の身分を剥奪され、百姓扱いとされていく。
それでもまだ、よいほうだった。『大和郡山市史』本編(大和郡山市、1966年)は、反抗的な国衆の中には、在地を追われ、ついには食うにも事欠いて自ら命を絶った者もいたと記している。そして、「おだやかだった順慶在世中の政治とことなり、大和に残る旧来の勢力は秀長の入部とともに急角度にその貌を変えてきた」とし、1586年1月の天正地震にも並ぶ災害のような出来事だったとしている。
味噌も酒も野菜も…奈良の商売を全面禁止
さて、こうして郡山城下町を中心として経済振興を図った秀長であるが、その政策もやはり強烈なものだった。大和に入った直後の1585年10月には奈良で一切の商売を禁止することを命じている。これは、経済の中心を強制的に郡山へ移動させようとするものであった。
当然ながら、この強硬策は大混乱を引き起こした。『多聞院日記』はその混乱した様子が簡潔に記されている。
昨日ヨリナラ中ハ一切ノ万ノ商賣被止之、於郡山可有賣買ト云々、ミソ・サケ・柴木・菜・ノリ・ユワウ以下一切ノ物、一種モ無賣買、サテ々々淺猿コト、勿論質之取遣モ無之、今日悉侘言ニ下了、如何、泉州ヨリ百姓州人計田地ノ損免ヲ乞ニ來テ、恐以搦置之云々、以外火急見タリ、いかが、(『多聞院日記』第3巻 角川書店、1967年)
筆者訳:昨日から、奈良中ではあらゆる商売が禁止され、売買は郡山でせよ、とのことだ。味噌・酒・薪・野菜・海苔・硫黄をはじめ、あらゆる品物が、一種類たりとも売買されていない。なんとも嘆かわしいことである。質の取り交わしもない。今日は、皆が嘆願のために(郡山へ)下った。どうなることか。和泉から百姓らが、田地の年貢の減免を求めてやって来たが、捕らえて留め置かれたという。あまりに性急なやり方に見える。どうなることか。
今回の大河ドラマもそうだが、これまでの様々な作品を通じて秀長といえば、天下人の兄・秀吉の暴走を陰でなだめ、人望で家中をまとめる穏やかで有能な名補佐役というイメージが培われてきた。しかし、こうした数々の既得権益の排除政策をみると、そのイメージは完全に瓦解する。
従う商人には「独占」の恩恵も
それどころか、郡山を経済的中心地にするために「商売すべて禁止」までやるとは、もはやあまりにも過激過ぎる統治者である。
しかもその政策は一定せず、1587年正月には奈良と郡山の座を廃止したかと思えば、4月には黒鉄・魚・塩以外の座を許可、さらに8月には改めて奈良では商売を禁止し、郡山で商売をすることが命じられている。

