店内にはあの日の怒鳴り声はもう響かない
絵奈さんは現在、単に店を手伝う妻ではない。正博さん自身が「指導教員みたいな役割」と表現する存在になっている。従業員が正博さんに直接言いにくいことを、まず絵奈さんに相談し、絵奈さんがそれを正博さんに伝えることで、コミュニケーションが円滑に回っているという。
「主人の前にワンクッション私に相談が入るようになったんです。これまではすぐに辞めてしまうバイトの子も多かったんですけど、社員やスタッフとちゃんとコミュニケーションが取れるようになって、定着するようになりました」
絵奈さん自身も、最初はラーメン店の仕事が好きだったわけではない。むしろ、逃げ出したかった。
それが今では、お客さんと話すことが楽しいという。
「久しぶりに店に出ると、『今日はお姉さんいるのね』とか声をかけてもらえる。それがすごく嬉しい」
「25年やってきて今が一番楽しい」
長年の事実婚状態だった2人は昨年、正式に入籍した。きっかけは、51歳で独り身のまま亡くなった共通の友人の報せだった。
「私がいなくなったら、この人はどうなるんだろう。最期に寄り添う人がいなくなっちゃうんじゃないかと思ったんです」
人生の有限さと、隣にいる人の重みを身に染みて感じたからこそ、2人は夫婦として手を取り直す道を選んだ。
口座残高8万円からのスタート。勘違いが生んだワンマン経営と、4000万円の借金。酒に溺れた暗黒期を経て、夫婦で血を吐くような思いで店を立て直してきた。
「25年かかりましたけど、辞めずにやってきてよかったです」
ようやく、自分の時間も少し持てるようになった。以前なら考えられなかったゴルフのレッスンにも行く。
「昨日もスタッフに、『今日悪いけど早く上がるね。レッスン受けるから』って言いました」
かつてのワンマン時代なら、残されたスタッフから不満が噴出していただろう。しかし、生まれ変わった正博さんと、店を陰で支える絵奈さんのもと、今の「たま家」にはスタッフとの確かな信頼関係がある。だからこそ、こうした何気ないやり取りにも笑顔が溢れる。
そんな当たり前の「人間らしい生活」が、25年目にしてようやく戻ってきた。
絵奈さんは隣で笑う。
「本当に、よく2人でここまで持ち直したよねって話すんです」
2人にとって、この8年間はあまりにも濃かった。しかし、その8年間があったからこそ、いまの「たま家」がある。
「本当に、今が一番楽しい」
正博さんがそう言うと、絵奈さんも深く頷いた。一人で突っ走っていた男に、立ち止まって周囲を見るための大切な存在ができた。
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