「消える写真」の魅力はスマホ文化を変えるか
そもそも人間のコミュニケーションは、リアルタイム(同期的)を指向しやすい。顔を合わせて話す実空間の会話は、当事者同士の時間(と場所)の同期を前提とするし、電話もしかり。そしてその同期的なコミュニケーションのニーズは、近年また高まっている。その理由は、ケータイやスマートフォンの普及だ。
パソコンベースのインターネットメールは、送信や受信に一定の「儀式」が存在するため、いわば手紙に近い非同期的なコミュニケーション手段である。一方、ケータイメールは、相手にメールを「押し込む」ことで、同期性を高めている。そして肌身離さず携帯するという利用形態が、「メールの押し込み」に一定の合理性や納得性を与える。
この気分は、スマートフォン時代も、まったく変わらない。日本では社会インフラといえるほどの普及を見せているLINEだが、その最大の特徴は「未読/既読が分かること」だ。この機能が原因で一部で「LINE疲れ」と呼ばれる現象が起きているが、それだけの人が「いま読んで欲しい/いま読まなければ」と思っているのだ。
一方で、写真は残る。そして記録として残った写真は、存在としてあまりに重い。「リベンジポルノ」という言葉を耳にした方もいるだろう。ケータイやスマートフォンで撮影された写真を巡る、いじめ、脅迫、ストーカーといった行為は、現代的な問題だ。だから、「写真」で「同期的なコミュニケーション」を「気持ちよく」実現するには、「コミュニケーション内容が一定時間で消える」必要があったのだ。
そしてこの「データが消える」、すなわちサービス提供側が一定期間しかデータを保持しない、という考え方は、スマートフォンの普及に伴い、今後大きな世界的潮流となる可能性がある。
欧州で現在改正が進む、個人情報やデータプライバシーに関する「個人データ保護規則」では、データの消去を求めることができる「削除権」(以前は「忘却される権利」と表記)が個人の権利として明確に規定されている(※2)。ビッグデータが謳われる昨今、大規模データベースから自由になる権利の主張が、消費者保護を巡る1つの潮流として、台頭しつつある。