「やめること」を自分で選ぶ
何もしなければ、人生は自然と足し算に向かう。予定は増え、モノは増え、人間関係は広がり、仕事も頼まれる。こちらが明確に線を引かないかぎり、人生は少しずつ他人の優先順位で埋まっていく。
だから最近は、「やめること」も自分で選んだほうがいいと思うようになった。何となく減っていくより、自分で先に選んだほうが、気持ちがずっと軽い。
50代に入ると、体力と時間は確実に変わっていく。同じだけのエネルギーを、同じ数の物事に注ぐことが、物理的に難しくなってくる。それでも足し算を続ければ、すべてが中途半端になる。
ここで一度、やり方を変えたほうがいい。
足し算から、引き算へ。
これは諦めではない。衰えでもない。豊かさを知り尽くした人間にしかできない、より高度な設計だ。
選択と集中。ビジネスでは当たり前のこの戦略を、人生にも適用する。成長期は多角化し、成熟期はコアに集中する。
ただ、頭ではわかっても、人生で線を引くのはビジネスより難しい。数字という客観的な指標がないからだ。
しかも、人生後半には、こちらが選ぶ前に、向こうから取り上げられる時期がやってくる。
肩書きが消えた途端に小さくなる人の正体
ある朝、目が覚めて、予定が何もない。名刺の肩書きが消えた。会社のメールアドレスも、もう開けない。昨日まで自分を呼んでいた電話は、今朝は鳴らない。スケジュール帳の空白が、急に重く感じる。
役職定年、定年、独立後の踊り場。増やしてきたものが、一斉に手元から離れていく時期がやってくる。
この局面でつまずく人を、何人も見てきた。肩書きが消えた途端に小さくなる人。仕事量が減ったことを、自分の価値が減ったことと混同する人。
なぜ、減ることが、こんなにつらいのだろう。
長年「足し算」で生きてきた人間にとって、減ることは、どうしても後退に見えてしまうからだ。「前ほど進んでいない」という感覚につながる。
でも、それは少し違うのではないかと僕は思うようになった。
不幸の正体は、減ることそのものではない。
選ばずに減らされた、という感覚だ。
向こうから勝手に取り上げられた。自分で選べなかったという感覚が、喪失感を大きくしてしまうのだ。
だから、人生後半で必要なのは、諦めではない。奪われるのを待つのではなく、先に自分で選ぶことだ。
自分で選んで手放したものには、不思議と後悔が少ない。でも、選ぶ前に失ったものには、喪失感が残る。「減らされた」のか、「減らした」のか。この違いが、人生後半の幸福を大きく左右する。
必要なのは、縮小ではない。選び直しなのだ。



