聖断の夜、皇居は武力占拠された
それでも、決定に従わない者たちがいた。ポツダム宣言の受諾に反対する陸軍の一部将校が、皇居を武力で占拠したのである。いわゆる宮城事件は、15日早朝までに収束した。
経過は、アジア歴史資料センターの終戦80周年特別展年表と、防衛研究所所蔵の陸軍大佐・稲留勝彦資料が伝えている。天皇が二度目の決断を下してなお、武力で抗う勢力が陸軍内部にいたのである。
二度の御前会議で共通していたことは、政府と統帥部が自分では決められず、天皇の判断で国家意思を確定した点である。冒頭で見たとおり、国立国会図書館が公開する大日本帝国憲法の第55条は、国務大臣が天皇を「輔弼」し、その責任を負うと定める。天皇は形式上、統治権を総攬する立場にあったが、通常は大臣・統帥部がまとめた方針を裁可する運用であり、自ら対立を裁断することは想定されていなかった。
その建前が、最後の4日間で二度も破られた。アジア歴史資料センターも、二度の聖断を「輔弼」制度からの逸脱、すなわち大日本帝国憲法体制の瓦解と位置づけている。
ただ、「二度の聖断」には異なる部分もある。第1回で決めたのは「何を条件に受諾を申し入れるか」であり、両総長の署名を事前に取り付けて会議が開かれた。第2回は、天皇自らが全閣僚を呼び集め、陸軍首脳の抗戦論を最終的に退けるための場だった。
一度目が対外交渉の入り口だったとすれば、二度目は国内の抵抗を抑え込む出口だったのである。
武力行使をやめたのは「8月15日」ではない
二度目の聖断が下っても、戦争がすぐに終わったわけではない。
アジア歴史資料センター特別展第1章が掲載する陸軍中央の命令書類によると、15日の大陸命(大本営陸軍部の命令)第1381号が命じたのは「積極進攻作戦」の中止だけだった。
陸軍が戦闘行動そのものの停止命令を出したのは16日午後4時の大陸命第1382号で、それでも停戦交渉が成立するまでの、やむを得ない自衛戦闘は認めたままだった。一切の武力行使の全面停止の期限が定まったのは18日の大陸命第1385号で、内地は22日午前0時、外地は25日午前0時以降とされた。
海軍は17日、25日午前0時以降の一切の武力行使停止を命じており、陸海軍の最終的な停止命令がそろったのは18日だった。聖断や玉音放送の瞬間に、全戦線が一斉に止まったわけではないのである。
連合国が戦争の終結としたのは、東京湾で降伏文書に調印した9月2日である(国立国会図書館「降伏文書調印に関する詔書」。だが日本軍が武力行使をやめる期限は、それより前の内地8月22日、外地は8月25日に区切られていた。8月15日でも9月2日でもなく、8月25日が日本軍が武力行使をやめた日なのだ。
熊谷市ホームページ「現代」によると、終戦前夜である8月14日夜の熊谷空襲で266人が死亡した。二度目の聖断が下され、御前会議と閣議で最終受諾が決まった日の夜にも、国内で人命が失われた。
最後は天皇に頼るほかなかった
一度目の聖断は、連合国へ条件付き受諾を申し入れるために必要だった。二度目は、その回答を受け入れ、陸軍首脳の抗戦論を退けて最終受諾を確定するために必要だった。「二度」という数字こそ、輔弼と統帥の機構が最終局面で自力決定できなくなっていたことの証拠である。
政府も軍も、憲法の建前を踏み越えて、天皇に頼るほかなかった。それが大日本帝国の意思決定の、最後の姿だった。


