両総長に無断で開かれた「御前会議」
10日午前0時3分、天皇は皇居の地下防空施設「御文庫附属庫」に姿を見せた(宮内庁公表資料)。迫水久常書記官長は、参謀総長と軍令部総長の署名を事前に集めておきながら、両総長には無断で開催手続きを進めていた。しかも軍部には、結論を出す場ではないと説明していた。会議の開催自体が、通常の手続きでは実現できない状態だったのである。
御前会議では東郷案に鈴木首相と米内海相が賛成し、阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部総長が反対した。午前2時すぎ、鈴木首相が判断を求めると、天皇は1条件での受諾を決断した。その決断の理由を伝える言葉が、『終戦史録』所収「保科善四郎手記」に残る。
「今迄計画と実行とが一致しない」
軍の言う本土決戦の備えは、実行が伴っていないという不信の表明である。九十九里浜の陣地も、新設師団へ渡す兵器も整っていないと天皇は指摘した。軍内部の一次資料も、この批判を裏づける。防衛研究所所蔵「本土決戦関係兵備綴」(請求記号「文庫、宮崎、73」)の5月15日付装備表は摘要欄に「未充足」と記す。
同じ綴りの6月18日付参謀本部第2課作戦班文書も、本土決戦準備がなお十分でない状況を示していた。原画像は防衛研究所のデジタル史料展示で確認できる。
第1回聖断は10日午前3時からの閣議で正式決定された。外務省は10日朝、中立国のスイスとスウェーデンを経由して、連合国へ受諾の申し入れを打電した。国立国会図書館が公開する外務省電報群によると、その申し入れの核心は、天皇の統治の大権を変更する要求は含まれていない。そう「了解」した上でポツダム宣言を受諾する、という点にあった。
10日の通告は「最終受諾」ではなかった
この申し入れは、条件を付した受諾の意思表示であり、最終受諾ではない。日本側が示した「了解」を連合国がどう扱うか、その回答を待つ段階に入ったのである。
連合国は11日付で回答を発出した。米国務長官の名を取って「バーンズ回答」と呼ばれる。米国務省の外交史料集『米国外交文書』(FRUS)に収録された回答文によると、その骨子は2つ。天皇と日本政府の統治の権限は、降伏の時から連合国最高司令官に対して「subject to」である。そして日本の最終的な統治形態は、国民が自由に表明する意思で決める。
外務省はこの「subject to」を「制限の下にあり」と読んだ。主権は残り、受け入れられるという解釈である。陸軍は同じ一語を「隷属する」と訳し、国体を損なうものだとして連合国への再照会を求めた。外務省の内部文書「バーンズ解答文解釈に付て」(外交史料館所蔵)も、占領中に統治権が制限されるのはやむを得ず、その点を隠さず明示した回答はむしろ誠意の表れと見てよい、と評していた。
同じ英文が、受諾可能な制限にも、国体を否定する隷属にも読まれたのである。訳語の対立は、国立公文書館アジア歴史資料センターの特別展でも確認できる。
