日本より先に車両を作り、時速450キロを記録
リニアの本格的な開発に着手したのは日本が先だった。日本では1962年に研究が始まったが、ドイツでは1971年に有人走行できる磁気浮上車両を公開し、同年には「トランスラピッド02」が時速164キロを記録した。日本初の実験車両「ML100」が登場したのは翌1972年である。方式は異なるものの、車両の完成ではドイツが日本に先行していた。
一方、1977年に宮崎実験線が開設されたことで、実用規模の走行試験では再び日本が先行する。ドイツ版リニア計画が本格的な走行試験の段階に入ったのは、1983年。この年、ドイツ北西部エムスラントに建設された1本の高架試験線が部分開業を迎えたのが始まりだ。
磁石の力で車体をレールの上に浮かせ、摩擦なく、滑るように走る。リニア技術は当時、公共交通のなかでもとりわけ安全だと信じられていた。シーメンスやティッセンクルップが名を連ねるトランスラピッド・コンソーシアムは、この技術を世に示そうと動き出す。エムスラントの試験線は1987年までに、全長31.5キロに達した。
この試験線に新型車両が次々と投入され、走行試験が繰り返された。鉄道車両市場専門メディアのローリングストックによると、1993年6月、「TR07」が時速450キロの速度記録を樹立している。
エムスラントの人々にとって、この施設は地域の経済力と技術力の象徴であり、まさしく誇りだった。欧州ニュースメディアの「ローカル」は2016年の記事で、クルーズ船建造で世界をリードするパーペンブルクのマイヤー・ヴェルフト造船所と並ぶ、地域の代表的施設だったと報じている。
地元政治家のラインハルト・ヴィンター氏は、「トランスラピッドを通じて魅力的な雇用が生まれ、“未来の技術のふるさと”という名声を得ることで、この地域が恒久的に恩恵を受けられると期待していた」と語っている。
だが、試験線の運用はあえなく2011年に終了する。国内で計画されたリニア路線は、一つ残らず消えている。
「空港まで10分」の夢も消えた
最初に頓挫したのは、ベルリン―ハンブルク間の都市間路線だ。インターナショナル・レイルウェイ・ジャーナルによると、1990年代後半に計画が持ち上がったものの、実現しないまま立ち消えた。
続いて浮上したのが、ミュンヘン空港―中央駅を結ぶ短距離路線だ。独ITニュースサイトのハイゼ・オンラインがその経緯を伝えている。2002年、当時のバイエルン州首相であったエドムント・シュトイバー氏がリニアによる接続の利点について、「ミュンヘン中央駅にいたならば、10分で、空港でチェックインする必要もなく、つまり中央駅から空港でのフライトが始まっているようなものだ」と力説した。
すなわち、ミュンヘン中央駅からフランツ・ヨーゼフ・シュトラウス空港までリニアなら10分で到着し、中央駅ではチェックインを済ませられるとの計画だった。アクセスの良い都心の駅ターミナルがまるで搭乗ゲートのように感じられるという、画期的な構想だ。
ところが、この構想は幾度もの訂正を経て支離滅裂になり、演説内容自体が広く語り草になった。当時のドイツでは、キング牧師の「私には夢がある」と並ぶ演説として熱狂的に支持されたが、結局計画は頓挫した。同メディアはドイツのリニア史を「技術的熱狂と政治的ドタバタと悲劇的失敗」の物語と評しているが、ミュンヘン路線をめぐる経緯はその典型だった。

