大ヒットグループをつくった役割分担

寛子も絵理子もミュージカルの舞台などで場数を踏み、経験も十分。だからこの2人を組ませればいけるとマキノは踏んだわけである。ところが、当時安室奈美恵が所属していた縁もあり、マネジメントを依頼したライジングプロダクションが難色を示した。そこでマキノは新たにスクール生だった上原多香子と新垣仁絵を推薦。結局、4人組でのデビューとなった。

このように、デビューまでにスムーズにいかない面もあった。だがこの追加によって生まれた役割分担が、SPEEDが後世に残るグループになる道を拓くことになる。

当時を思い出してもらえばわかるように、4人の役割は完全に2つに分かれている。寛子と絵理子がメインボーカル。そして多香子と仁絵がダンス&コーラスでダンスがメイン。わかりやすく言えば、歌うのは寛子と絵理子で、踊るのは多香子と仁絵である。

これによって、SPEEDならではの唯一無二のパフォーマンスが生まれた。誰もが思わず聴き入るハイトーンで伸びやかなボーカル、そして日本人にはまだ珍しかったヒップホップをベースにしたハイレベルなダンス(特に仁絵はそれを得意にしていた)の絶妙な融合である。

「沖縄チャキチャキ娘」「ハブとマングース」

そしてSPEEDは、テレビから生まれたグループでもあった。

デビュー前の4人が出演していたのが『THE夜もヒッパレ』(日本テレビ系、1995年放送開始。以下、『ヒッパレ』)である。三宅裕司が司会の音楽バラエティ番組。ベストテンに入ったヒット曲を本人ではなく別の意外な芸能人が歌う趣向で人気を博した。

日本テレビタワー
日本テレビタワー(写真=Akonnchiroll/CC-BY-SA-4.0/Wikimedia Commons

そもそも「SPEED」というグループ名も、この『ヒッパレ』で公募して決まったものである。沖縄に由来する「琉球ガールズ」、さらには「ハブとマングース」という珍妙な候補まであったが、最終的に「沖縄チャキチャキ娘」との争いになり、若さや疾走感をイメージさせる「SPEED」に決まった。

山口百恵やピンク・レディーを生んだ1970年代のオーディション番組『スター誕生!』(日本テレビ系)のことを思い出すまでもなく、アイドルはテレビと切っても切り離せないものだった。家庭でテレビを見ることが多い視聴者が芸能人に求めるのは親近感。それを歌手の世界で体現したのがアイドルだった。

特に『ヒッパレ』は音楽番組と言ってもかしこまったものではなく、カラオケ番組やバラエティ番組の色も濃く、いっそう親近感を高めてくれる内容になっていた。そのなかでまだ子どもの年齢のSPEEDの4人は、必然的にお茶の間のアイドルになった。

リモコンを手に、チャンネルを変えている手元
写真=iStock.com/Yuzuru Gima
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