「家に帰って寝る時間が削られ、次の日の患者さんの手術に対してマイナスなら家に帰らないほうがいいでしょう。どこでもよく眠れる取り柄があるので、ベストコンデションで手術に臨みたいのです」“手術で人を救うために生まれてきた”天野教授が、医師を志したのは、父親のおじが天野少年を診てくれた小児科医だったことが影響している。
83年、日本大学医学部卒。迷うことなく心臓外科を選んだ。天野教授の父親は天野教授が大学2年のときに心臓弁膜症で手術を受け、将来再手術が必要といわれていたからである。2回目の手術が行われ、天野教授は助手として手術場に入った。しかし、縫いつけた人工弁の糸が1本緩み、結果、3回目の手術後に父親は帰らぬ人となった。
「父は自分の生命と引きかえではないですが、私に価値がはかれない遺産をくれました」“確実に、手を抜かない、完璧を目指す”天野教授の厳しい道はここから生まれたのかもしれない。
自分自身で行った手術では98%の成功率(待機手術では99.6%)とはいえ、2%(待機手術では0.4%)は亡くなる人もいる。
「そういう人のことばかり覚えています」
とりわけ強い記憶として残っているのが、21年前の手術。当時20歳だったS子さんは心臓の悪性腫瘍だった。
「心臓の悪性腫瘍を調べると“すべて取り切る。取り切れば次の化学療法、放射線療法での延命ケースもある”とありました」“腫瘍を取り切ればS子さんを自宅に帰せる”との思いで全神経を集中してメスを握り、執刀した。
「切っていくと両心房はなくなり心室だけが残りました。先天性疾患用のパッチで右心房、左心房を作り動かしましたが、そこで大出血。自衛隊に輸血をお願いして何とか出血がとまり、無事、彼女を帰すことができました」