消極的な少年が医者を志したワケ

【大﨑】澤先生って小学校のとき、どんな子どもだったんですか? やっぱり勉強はできたんですか?

【澤】(首を傾げて)子どもの頃、小児喘息でした。小学校2年生のとき、半分ぐらいしか学校行っていないんです。身体が弱かったせいもあるんでしょうけど、通信簿の備考欄には〈消極的、もっとしっかり発言するように〉と書かれていました。母親に消極的ってどういう意味と聞いたら「あんたのような子のことや」って言われました(笑い)。

【大﨑】今となっては信じられへん(笑い)。

【澤】あんまり学校行っていないので、たまに行くといじめられる。動物が好きだったんで、将来の夢は動物園の園長さんでした。

ボトルからミルクを飲む虎の子
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【大﨑】そんな消極的な澤少年が変わったきっかけはなんだったんですか?

【澤】中学からバスケットボール部に入ったんです。これがまた厳しい部で、1年のうち363日練習。入学のとき1年生は40人いたのに、1年経ったら5人しか残っていない。先輩もコーチも怖くて、ぼくは気が弱くて辞めるって言い出せなかった(笑い)。そのうちに身体が強くなって、近くの高校からバスケットボール推薦の話が来るぐらいになった。

【大﨑】ぼくは水泳部、2年生のとき辞めました(笑い)。医者を志したのいつ頃ですか?

【澤】高校生のとき、医者だった従兄弟が亡くなったんです。人ってなんで死ぬんだろうって。人を助けたいと思いました。

医者になってからスイッチが入った

【大﨑】そこで大阪大学医学部に進み、心臓外科医となりました。なぜ心臓外科だったんですか?

【澤】ぼく、あんまり勉強しなかったんですよ。(卒業が近づく)6年生の夏ぐらいにみんなが国家試験の勉強をすごくしている。このままでは医者になれないと焦りました。気がつくのが遅いんです(笑い)。それから必死で半年、国家試験の勉強をしましたね。

合格した後、“身体”で医療を覚えようと思ったんです。そこで当時、一番きついと言われていた(大阪大学医学部の)“第一外科”、その中でも大変な心臓外科に行くことにしたんです。

【大﨑】当時は「ナンバー外科」と呼ばれて、数字で診療科が区別されていた時代。心臓はポンプのように血液を身体中に送り出しています。止まると死んでしまう。命に直結した、責任が非常に重い診療科です。

【澤】死ぬか生きるか、というわかりやすさに惹かれた面もありました。第一外科に入って最初は本当にハードでした。病院に泊まり込んで、2週間家に帰らないということもありました。今ではダメです(笑い)。家に帰る時間がないので、お風呂は近所の銭湯です。

お湯を抜く(夜の)12時直前に駆け込んで入れてもらうこともありました。顔見知りになっていたので、「今日は女湯が空いているから、そっちに入りな」みたいな感じ(笑い)。医者になってからスイッチが入って、そのまま心臓外科医を40年やってます。