「臣籍降下」が無数に起きた皇室史
戦後に制定された皇室典範において、皇籍を離れる際には「皇籍離脱」という表現が使われる。女性皇族が結婚したら皇室を離れるわけで、その際には、この表現が用いられる。
ただ、それ以前に、皇室を離れる場合には「臣籍降下」という表現が用いられた。天皇や皇族は姓をもたないわけで、皇室を離れれば姓が必要になる。その姓を天皇から賜り、臣下の籍(一般の戸籍)に入ることが臣籍降下である。
皇室の歴史のなかで、臣籍降下は無数にくり返されてきた。それも、皇族の数が増えすぎると経費がかさみ、経済を脅かす危険性があるからだ。
さらに、男子の皇族が多くなれば、皇位をめぐって争いが起こる可能性が高まる。歴史のなかで、そうしたことは現実にくり返し起きてきた。
その際に、臣籍降下が行われるのだが、そこには大きく分けて二つの道があった。
史実が示す皇族復帰の“境界線”
一つは武士になるもので、源氏や平氏はその具体例である。鎌倉幕府を開く源頼朝の清和源氏だと、第56代の清和天皇の孫を祖とする武家の一族である。その源氏と戦って敗れた平清盛の桓武平氏だと第50代の桓武天皇の子を祖とする。
もう一つが出家する道である。彼らは「法親王」と呼ばれ、有力な寺院のトップになって、仏教界に君臨した。
ただ、さまざまな都合によって、いったん臣籍降下した人物が皇族に復帰することもあった。経済的な理由で臣籍降下が行われたものの、皇位継承者が不足する事態が生じたときにおいてである。
旧宮家の場合も、その源流となる伏見宮家の皇子たちは多くが出家しており、明治に入って還俗し、それで新たな宮家を立てた。久邇宮家も東久邇宮家もそうして生まれた宮家である。
ここで注目しなければならないのは、いったん臣籍降下した人物が皇室に復帰する場合、それはあくまで本人に限られることである。その子どもや孫まで復帰することは伝統にならなかった。
ただ、二つだけ例外がある。
