ナチスに頼るしかない空気

二つ目の理由は、イギリスは直前の第一次世界大戦で多くの犠牲を出していた、ということです。

第一次世界大戦が終了したのは1918年ですから、多くの家族は未だ、戦争によって家族を失ったという悲しみの最中にありました。特に、オックスフォードやケンブリッジのエリート学生を子に持つ親や親族は、彼らがそのエリート意識ゆえに戦況の厳しい激戦地へと送られて亡くなっていたことから、深い悲しみの中に沈んでいました。

そんな国民に、再びあのような悲惨を味わわせることはできない、というのは人間として当然の感情だったでしょう。

そして三つ目の理由が、ソ連の存在です。

当時の英国の上流階級エリートたちにとっては、ヒトラーよりも、共産党ボルシェビキの「富の再分配」というイデオロギーの方がはるかに深刻でした。迫り来る共産主義の脅威の防波堤になりうるのはナチスドイツしかない、と考える人が多かったのです。そのため、当時の英国上流階級には、あからさまにナチスに接近し、好意を示す人々が少なくありませんでした。

シンプソン夫人との「王冠をかけた恋」で知られるエドワード8世などは、あろうことかベルヒテスガーデンの山荘にヒトラーを訪れ、イギリスとナチスの仲良しぶりをアピールするためのプロパガンダにまんまと利用されています。

ヒトラーが仕掛けた認知戦

つまり、これら三つの要因によって、当時のイギリスでは「開戦より宥和」という空気が圧倒的に優勢だったのです。この状況について、聡明なヒトラーはよく理解していました。だからこそ、彼はあれほど迅速にポーランドを併合し、フランスに攻め込んでいけたのです。

1942年6月、東部戦線にて、ポルタヴァの南方軍集団司令部で状況報告を受けるアドルフ・ヒトラー
1942年6月、東部戦線にて、ポルタヴァの南方軍集団司令部で状況報告を受けるアドルフ・ヒトラー(写真=Bundesarchiv, Bild 183-B24543/CC-BY-SA-3.0-DE/Wikimedia Commons

「価値観の混乱」という状況を引き起こし、その混乱に乗じるというのがヒトラーの戦略だったわけですが、このような、いうなれば「巧みな認知戦の仕掛け」は、まんまと上首尾に運んだわけです。

経済学者のフリードリヒ・ハイエクは、その著書『隷属への道』の中で、当時のヨーロッパのインテリについて次のように慨嘆しています。

きわめて悲しむべきことだったのは、第二次大戦が勃発する以前に、民主主義国家が全体主義国家の独裁者たちに対して示した態度であった。彼らは、プロパガンダ活動と同様、自分たちの戦争目的が何であるかという議論においても、内心のおぼつかなさや迷いを露呈してしまった。それは、自らの理想が何なのか、また、自分たちが敵と対立する点はどういう性質のことなのか、はっきりと理解していなかったことを示している。