うまい話ばかりではない半導体誘致
半導体工場が消費する大量の水も懸念材料だ。ソニーが20年前に開発の一端を担った手法、すなわち作付け期以外に水田に水を張り地下に浸透させる方法(地下水の涵養)が検討されているが、農家の高齢化などの事情により、水田の確保自体が年々難しくなっている。
地元企業は人材の争奪戦に巻き込まれた。フィナンシャル・タイムズによると、TSMCは地元製造業の大卒初任給より約3割高い月給でエンジニアを募った。熊本の最低賃金は全国でも最低水準で、高卒者の約4割が県外に職を求める土地柄だ。
突如、高い賃金を気前よく払う雇用主が出現したことで、若い人材が好待遇を求めてTSMCなど半導体関連企業へ転職する動きが加速した。
一方で、変化の波に乗れない企業もある。
台湾のハイテク市場調査会社のトレンドフォースがNHKの報道として伝えるところでは、TSMCの存在が地域経済を押し上げるとの期待に反し、2024年の熊本県の企業倒産(負債1000万円以上)は80件に到達。12年ぶりの高水準を記録した。半数近くが創業20年超の企業であり、TSMCの誘致成功に沸いた地元は思わぬ衝撃を受けた。
インフラへの負荷は、TSMC自身にも影を落としている。台湾の英字日刊紙のタイペイ・タイムズによると、TSMCの魏哲家(C.C.ウェイ)会長兼CEOは2025年6月の株主総会で、熊本第2工場の着工延期を認めた。理由は交通渋滞だ。
「以前なら10〜15分で着いた場所に、今は1時間近くかかる。自分自身で体験した」と語り、着工前に日本政府と交通環境の改善について協議中だと説明していた。現在では着工したとの情報があるものの、このように現場では、道路1本を取っても課題が山積している。
世界のAIブームを日本企業が支えている
AIブームの主役はアメリカのソフトウエア企業であり、量産を支えるのは台湾の製造技術だ。だが、本稿で見てきたように、その両方が動くために不可欠な素材・装置・検査工程の多くは、日本の企業群が担っている。
味の素のABFからアドバンテストの検査装置まで、いずれも華やかなAI産業の表舞台に立つことこそないが、これらが止まれば世界のAI開発も文字通り止まってしまう重要な存在だ。
チップの設計思想が変わっても、ソフトウエアの覇者が入れ替わっても、物理的に「作る」工程は消えない。技術の流行が移り変わるたびにゼロから競争が始まるプラットフォームの世界とは異なり、素材や精密加工の領域では、数十年かけて蓄積した知見と製造ノウハウそのものが参入障壁になる。日本企業の強みは、まさにそこにある。
「どこが安いか」ではなく「どこなら信頼できるモノを造れるか」がサプライチェーンに求められる時代に、日本は誰にも代替できないポジションを確立しつつある。目立たない場所で、替えのきかない仕事を黙々と続ける工場の強さが、いま世界の舞台裏で静かな期待を背負っている。


