勉強漬けを救ってくれた読書体験
私は当時、非常に悩ましい、そしてさっぱり先の見えない、勉強ばかりの苦しい日々を過ごしていました。
古典の文献を読み、それらについて書かれた学術論文を読み、朝から晩まで、それこそ一日中勉強していると、もう心がうんざりしてきます。同時にしかも、これから先の展望はまったく開けない、念願であった母校慶應義塾大学での研究職もしくは教職への希求は何度も何度も失敗つづきで、さあこの先どうなるのか、暗澹たる気持ちを抱きながら、ただひたすら先の見えない勉強を続けていた、というところでした。
そしてこういう抑鬱的な日々のなかで、ともかく勉強だけは休むことができませんから、いきおい脳は過活動状態となり、そのままだと眠れなくなるんですね。
だからこそ、なんとかして、この勉強過剰で活動が停止できない脳を休ませる方法を私は必要としていました。それが大藪春彦だったのです。
脳を休めてくれた無条件の「痛快感」
勉強にひとまず切りをつけてから、夜寝る前にベッドのなかで大藪春彦を開き、心を空しくしてどんどん読み進めて行くと、自然と痛快な気分となって脳の興奮状態が治まってきます。
かくて夜中の二時三時に、ひとしきり大藪ハードボイルドを濫読すると、ヒーロー伊達邦彦などがめでたく悪人ばらをやっつけて爽快なるカタルシスが訪れる、そのタイミングで、さっと寝る。
この読後の爽快感、あるいは何も考えずにただスラスラと読み飛ばしていくスピード感、大藪が当時の私に与えてくれたものは、ともかく無条件の「痛快感」でした。
その読書が、「何かを考えさせてくれた」とか、「新しい知見を授けてくれた」とかいうようなことはまったくなくて、ただただ愉快痛快なだけの読書、それが苦しみの日々の、こよなき心の慰安になるなら、それもまた読書の大切な「役割」であった、と私は総括しています。
こういう作用は、池波正太郎の『剣客商売』なんかでも同じことで、私は、世の中で「大衆文学」と言われている、そういうジャンルの作品群に非常に強いシンパシーを感じています。
思想よりも、哲学よりも、文学が人々の役に立つという存在であるのは、むしろこういう大衆的な娯楽としてのそれであろうと、私は堅く信じています。そしてそういう読書が、難しい純文学を読むことより下位にあるなんてことは、これっぽっちも思いません。



