小説家はほうっておいていい

私のところに編集者の方がおいしいものを持ってきてくださる。私は心からおいしいと思って感謝するけれども、その編集者がおいしいものを持ってきたからといって、原稿を早く書こうとは思わない。それはそれ。食べて忘れちゃって「やっぱりだめ、間に合いません」。その時、喜んでいるだけです。

ただ、私が彫刻家だとするでしょう。そうすると、いい大理石の塊をやるなんて人に会ったら、ちょっとおべっか使っちゃうかもしれない。でも、それで作品がいいかどうか、わかりません。

小説家と詩人はいいんです、ほうっておいて。貧乏してもいいし、だれか女の人にかわいがってもらって、ロールスロイスを買ってもらってもいいのです。無関係なんです。病気も失恋も、女房、子どもが死に絶えることも、あるいは文学のためなんです。そんなことは個人としては望めないことですけれども。作家にとって、起こることはすべて材料です。喜びも悲しみも、文学の一部になる。そう思えば、心はどんな時でも自由でいられるのです。

簡単に自分の心を売っていないか

昔のユダヤ人は大変お金に厳密だったんです。そしてお金に関するもののふたを開ける時には決して1人ではない。必ず証人をつくる。そして当時は、ユダヤ教の祭司の祭服に宝石がついていたんです。

第1の列はなんとかとなんとか、第2の列はなんとかかんとか、どうせ庶民には関係ないんだから、我々だったら、坊さんが使う祭服に宝石がついていたってご勝手にという感じですが、ユダヤ人はそうじゃない。その祭服にそれだけのものがついてたっていうことを確認をとっていくんです、だれかが盗まないように。

だから決して1人で金箱というかそういうもののあるところには入らなかった。これは当然のことだと私は思いますね。カネのような、大事だけれどつまらないものに足をとられるなっていうことなんです。

私、汚職の話でいつもおかしいなと思うことがあるんです。ゴルフに連れていってもらうとかヨットに乗せてもらったとか、料亭で食事をごちそうしてもらったとか、そんなことで心を売るんでしょうか。