「若くて死ぬる場合を除けば」に込めた残酷さ
そして、芸妓の修業や身請けの話を記していく八雲だが、その筆を途中でとめてこう記すのだ。
八雲は「書かない」ことで、逆に悲劇の深さを示している。
「若くて死ぬる場合を除けば」この一文にはとてつもない重さがある。
若くして死ぬことが、むしろ「幸運」だと暗に語っているのだ。芸妓として契約期間を終えた後、彼女たちに何が待っているのか。身請けされて幸せな結婚ができる者はごく一部。多くは年齢を重ね、容色が衰え、客が減り、借金が膨らみ、最終的には遊女として売られていく。あるいは病に倒れ、誰にも看取られずに死んでいく。
八雲はそうした「その後」を知っていた。だからこそ、「若くて死ぬる場合を除けば」と書いたのだ。若さを保ったまま、まだ夢を抱いていられるうちに死ぬこと。それが彼女たちにとっての「救い」になってしまう社会。その残酷さを、八雲は一文で表現している。生き延びた先に待つ運命は、それよりもさらに過酷だということである。
「なみを身請けしたい」という申し出。
— 朝ドラ「ばけばけ」公式 放送中 (@asadora_bk_nhk) January 20, 2026
やっと遊郭から出られる、夢が叶う、はずなのですが…。
なみはすぐにうなずくことが出来ません。#さとうほなみ#ばけばけ pic.twitter.com/f6vZ3tV9Oz
「忘れ去られていく者たちの物語」を書き残す
シンシナティで八雲が記したジュリア・エグナーの悲劇と、ここでの芸妓の悲劇は響き合っている。場所も時代も異なるが、八雲の視点は一貫している。「社会から見えなくされた女性たちの悲劇」を記録することである。
八雲は「告発者」として正義を振りかざしているわけではない。むしろ、ただ静かに、しかし克明に、彼女たちの存在を書き残そうとしている。見えないものを見えるようにする。語られないものを語る。
興味深いのは、八雲がキリスト教を嫌悪していたにもかかわらず、その姿勢には「復讐するは我にあり(裁くのは我=神だけ)」という精神が貫かれていることだ。
八雲は裁かない。断罪しない。ただ記録する。善悪の判断は、読者に、あるいは歴史に委ねる。自らは証人として、忘れ去られていく者たちの物語を書き残す。それが八雲の一貫した姿勢だった。そのように、忘れ去られていく者たちの物語を、八雲は記録し続けたのである。
そして、その姿勢こそが、妻となったセツと八雲を結びつけたものではなかっただろうか。
