稚児との姦通は黙認されてきた

「また別処あり。多苦悩と名づく。謂く、男の、男において邪行を行ぜし者、ここに落ちて苦を受く。謂く、本の男子を見れば、一切の身分、皆悉く熱炎あり。来りてその身を抱くに、一切の身分、皆悉く解け散る。死し巳りてまた活へり、極めて怖畏を生じ、走り避けて去るに、瞼しき岸に堕ち、炎の嘴の鳥、炎のロの野干ありて、これを瞰み食ふ」
(また、別の地獄がある。それを『多苦悩』という。男に対して性的な行為をした男が、この地獄に落ちて大きな苦しみを受けるのである。多苦悩地獄においては、男性を見れば、全身から激しい炎が燃え上がる。男同士で近づいて抱き合うと、互いの身体はたちまち焼け崩れて散り失せる。しかし、死んではすぐに生き返り、再び同じ恐怖が訪れる。逃げ出そうとしても、険しい崖から落ちる。するとそこには炎のくちばしを持つ鳥や、炎の口を持つ野犬がいて、逃げる者の身を次々に噛み裂き、食い尽くしてしまう)

『往生要集』の記述は、男色が禁忌であったことと同時に、社会の中で蔓延していたことを伝えるものである。

僧侶の場合、多くの制約の中で、露骨に女性を寺に囲うことはできない。そのため、若き美少年を寺に入れて「飼育」し、自分好みの稚児に育て上げたのである。稚児文化は、戒律や法の「言い訳」や「抜け道」として黙認され続けてきた。

稚児が出現するのは、比叡山や高野山が開かれた平安時代といわれている。山寺は女人禁制であったため、僧侶らは寺に仕えた稚児らを愛で、性の対象としてみなしていく。