墓石や地蔵をつかった石垣

地政学的に考えても、秀吉が秀長に大和郡山城をまかせた理由がわかる。西にまっすぐ数キロ行けば生駒山地にぶつかり、それを越えれば摂津で大坂平野が広がり、そこには大坂城がある。一方、北上すれば京都がある。つまり、大和郡山城は大坂と京都を守る役割を負うとともに、大坂城と並んで五畿内、すなわち天下を統治する城だったと考えられる。

この城は明治維新を迎えるまで存続したため、少しずつ手が加えられ、地震や風水害のたびに修復されてきた。しかし、主に中心部には、いまも秀長が改修した当時の姿が伝えられている。

郡山城旧観図
郡山城旧観図(写真=ブレイズマン/PD-Japan/Wikimedia Commons

毘沙門曲輪から極楽橋を渡って内堀を超え、本丸に進むのだが、この「極楽橋」という名称にピンと来る人もいるかもしれない。秀吉が大坂城の本丸北部に架けた橋と同じ呼び名である。大和郡山城の図に「極楽橋」という名称が記載されるのは18世紀前半なので、秀長の時代にそう呼ばれたかわからないが、当時の城主の柳沢吉里(吉保の嫡男)が、大坂城と並ぶ特別な城だった、という自負のもとに名づけさせたのかもしれない。