40万円ほどだが、ゴッホは喜んだ

ちなみにゴッホは「20人会展」にあの「ひまわり」も出展し、当時の手紙に「500フランの価値がある」と書いているが、そこまでは届かなかった。当時、ゴッホはオランダの母に宛てて「400フランなんて、よく考えてみれば安いんだけれど、とにかく絵が売れましたよ(照れ)」というようなメッセージを送っている。

それまでもゴッホは叔父に有償で風景画を頼まれたことはあった。また、ウジェーヌとお互いの絵を交換していたし、ゴーギャンとも絵を贈り合った。その取引に金銭は発生しなかったが、ゴーギャンの絵はすでに市場で売れるようになっていたわけなので、「等価交換」という意味で、ゴッホの絵にも価値が認められていたと考えることもできる。

しかし、やはり公式な場である展覧会で絵が売れたことは、うれしかっただろう。アンナがなぜこの絵を購入したかはわからないが、一説には、ゴッホほどの芸術家が評価されていないことに憤慨し、正義感のような気持ちから購入したという。

実家はハプスブルク家御用達

実はアンナにとって40万円ほどは、たいしたお金ではなかった。絵描きのボック姉弟には“太すぎる”実家があったのだ。

それは、かのハプスブルク家御用達の陶磁器メーカー、ビレロイ&ボッホ(Villeroy & Boch)。そのボッホ(ボックとも読む)が姉弟の苗字に当たる。フランス、ドイツ、ルクセンブルクに拠点を置き発展してきた企業で、マイセンやウェッジウッドのような一流ブランドだ。

バチカンに食器を提供し“ローマ教皇御用達”としても知られる。日本でも外資系のホテルなどでテーブルウェアとして使用されている。ただ、一般向け商品はマグカップが5000円ほどからと、そこまでお高くはない。

1890年当時は、ボック姉弟の伯父が社長を務めていた。その弟である父親は関連会社の社長。アンナはビレロイ&ボッホと父の会社の株を所有し、その配当金でブリュッセルの中心地にある瀟洒な館に住んで絵を描きつつ、毎週、サロンを開催するという優雅な日々を送っていたという。

ただアンナの画業は“お嬢様芸”では終わらなかった。同時代の女性画家マリー・ローランサンやメアリー・カサットほど有名ではないが、恵まれた境遇に甘えず、生涯、印象派やポスト印象派の流れを汲んだ“新しい絵”を描き続けた。同時にゴッホをはじめ、他のアーティストの作品を購入し支援する彼女は仲間に慕われ、絵や彫刻のモデルにもなっている。

絵を描くアンナ・ボック、1890年
絵を描くアンナ・ボック、1890年(写真=http://www.art-memoires.com/lm/lm03rey2.htm/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

アンナはゴッホの死後、「花咲く桃の木のあるラ・クロー風景」(現在はロンドンのコートルード美術館蔵)も購入したが、自分のコレクションを増やす資金にするため、1909年に「赤い葡萄畑」を売却する。次の購入者が出した金額は1万3000フラン(約1300万円)。19年間で価値は32.5倍になっていた(圀府寺司『ファン・ゴッホ 生成変容史』)。