荒廃した村も「節約」と「勤労」で救う

金次郎は、村の田畑を回り、一軒一軒を歩き回って村の状況をくまなく調べ上げました。

そして、藩主に村人の年貢の負担軽減を願い出ます。その村でとれる適正な年貢の量にするように交渉したのでした。また、金次郎は決意を固くし、その悪名高い桜町領への引っ越しを決めました。それも自分の家や田畑をすべて売り払い、退路を断ち切るほどの覚悟でした。

ここでも彼は「節約」と「勤労」の大切さを教えました。さらには、仕事を頑張った者を表彰するということもしました。朝は誰よりも早く起き、夜は誰よりも遅く田畑を回り続けたのです。

紆余曲折はあったものの、金次郎は桜町領を見事に立て直すことに成功します。

その後も彼はたくさんの村を救い続けました。金次郎は後に「尊徳たかのり」と名を改めますが、人々には有職ゆうそく読みで「そんとく」と呼ばれていました。

有職読みとは、周囲の人々が慕い、尊敬することで呼ばれるようになる呼び名です。有職読みをされていたというのは、当時から人々に慕われ尊敬されていたことを表すのです。その教えは金次郎の弟子たちにより「報徳仕法」としてまとめられました。

二宮尊徳の像
二宮尊徳の像(写真=Cassiopeia sweet/PD-self/Wikimedia Commons

人の心が変われば、農村は必ず立ち直る

金次郎は自身の二宮家のみならず、多くの村を立て直していきましたが、その際、次の三つを大切にし、仕事に正面から取り組んでいったのです。

丸岡慎弥『銅像が教えてくれる日本史』(扶桑社新書)
丸岡慎弥『銅像が教えてくれる日本史』(扶桑社新書)

「勤労」「分度ぶんど」「推譲すいじょう

勤労とは文字通り「よく働く」こと、分度とは自分の収入の範囲内で暮らすこと、推譲とは分度の結果余ったものを社会に戻すことです。金次郎はこれらを家族や農民、さらには藩主と身分などに関係なくすべての人に求めていきました。金次郎が農村を立て直すためにずっと考えていたことは次のことです。

「農村の立て直しは人心の立て直しから」

金次郎は何よりも人心の荒廃を立て直すことが最優先だと思っていました。まず自らが一番に働き、神社仏閣も修復したりして、人心さえ変われば村は必ず立ち直ると考えていたのです。